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Will hold an Exhibition “TOKIWAGI”

NEW EXHIBITION INFORMATION “常磐樹(TOKIWAGI)”, Around 25 B/W photographs taken in Tochigi, Japan July 16 2018 – July 29 2018 At Sokyusha Gallery in Shinjuku, Tokyo. http://www.sokyusha.com/gallery/index.html

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Started Crowd-Funding at Makuake

For project of [BAUM], we started crowdfunding at Makuake, Japanese biggest crowdfunding web company. Please check it out here.

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Started a new Project: “BAUM”

Started a new group project, “BAUM”, it was founded by 5 photographers; Sho Kosuda, Akikami Kanda, Koyata Saitoh, Hatsuki Oku, and I. Details can be seen here: “http://baum-foto.info/“

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Joined “STEP OUT! 2017”

Joined an event “STEP OUT! 2017” held by IMA.( on July 1st)

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Exhibition was closed

The exhibition held in Tokyo, named “Withering Field” was closed. Thank you for coming and seeing them.

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Photo Exhibition Started.

My new photo exhibition has started. From 6th February to 19th in Tokyo. Please visit and see them. Check the information here.

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Webpage updated.

The Script for “Withering Field” was updated. Here.

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Once: Past-Future tense/activity log(20161211)

On 11 Dec, 2016 Visited some places; Truya, Itoman City(26°07’58.4″N 127°40’42.8″E) Kuniyoshi Ridge, Itoman City(26°07’22.5″N 127°40’42.2″E): at this place a hard battles was fought between 12 to 16 June 1945. After US troops broke through this ridge, Japanese army and people suffered catastrophic damage. Shiraume no Tou(26°06’59.1″N 127°41’10.6″E): See details here.(in Japanese only) Yamagata no […]

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Once: Past-Future tense/ activity log(20161204)

On 4 Dec. 2016, Visited some places; Yonabaru(26°12’05.9″N 127°45’14.9”E) Near TSUTAYA Yonabaru Shop(26°11’54.8″N 127°44’46.0”E): This place was called Oak Hill. 24th May 1945 they broke through. 県営大里団地(Ozato Apartment houses) (26°10’43.1″N 127°44’43.0”E): 2nd June 1945 Duck(26°11’03.9″N 127°44’16.4”E): 26th May 1945 Back of Hakugin Hospital (26°08’07.5″N 127°40’12.4”E): 10th June 1945, they broke through, and after this attack, […]

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Once: Past-Future tense/ vol.7

As you can see the following map, the U.S. troops had come down along red lines. They charged forward separately both east and west side. East one was the Rocky Crags. West one was the Skyline Ridge. Southern half of Okinawa Island consists karst landform, so there are many caves, pinnacles and sinkholes. It means […]

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Once: Past-Future tense/ vol.3

At first, I thought like this; “I have to visit places from the first point where all the thing had begun. It means the point where they’d landed in 1945.” For this, I had to look into the correct points from notes. (the author of this website has been studying so hard that I could […]

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Once: Past-Future tense/ vol.2

  Near the coast of Sobe in Yomitan vill., Okinawa.(Through the Google Map Street View)     At first, in the morning on April 1st, they had landed. They would kill and rob everything from us. Before things happened, we’d better die in mass suicide. Is that correct as thoughts of people at that time? […]

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Once: Past-Future tense/ vol.1

I’m photographing in Okinawa. This geographical name, “Okinawa,” is always very political; this might be the fate of the name. It’s past over 70 years, though.  The scenery which I’m walking around and taking pictures of is just only “Okinawa,” a “thing which there’s here now,” but never a “thing which there’d been once.” In […]

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Digital tattoo

Pictures and movies, which are uploaded on web, can’t be delated easily: this fact is very popular and commonplace. I usually surf web, especially Facebook, Twitter or such SNSs, and see pictures of children. Their parents upload their picture. This is because, I guess, they want to share their happiness, but do those parents really […]

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My view on the politics in Japan today

I will translate the weblog on 14thJune in English. These days again I’m reading a book, “The literatures today,” actually it was my textbook of Japanese in my high school days. It also includes the section 8 in chapter3 of “Thought and Behaviour in Modern Japanese Politics.” He described Charlie Chaplin showed how “aberrations” behave […]

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日本の政治についての所感2015.6.14

今日は日本語でかきます。 高校の現国の教科書でもあった『現代の文章』を、ここ最近読み直している。この中に、丸山真男氏の『現代政治の思想と行動』の第3部8節が抜粋されている。そこではチャップリンが「倒錯した人々」がどのように振る舞うのかを映画の中で示していることが指摘されている。チャップリンの代表作は『独裁者』だろう。もちろん、『モダン・タイムス』もとても有名だしポピュラーだし、意義深いものだ。丸山氏も『モダン・タイムス』の中でチャップリンが世界で起こりうる倒錯をえぐり出す鋭さをいかにみせていたかを問うている。しかし、ぼくは『独裁者』がより、今の時代として、重要であると感じるのだ。 この本で丸山が主張したのは他でもない、ナチスという怪物がドイツを掌握していった原理の点だ。倒錯した世界の人々には、自分たちは倒錯しているようには見えない。そのことをチャップリンは、逆さまに飛行する飛行機に乗るふたりの人物でも如実に示している。そこで彼は当然の疑問に立ち止まる。「それではドイツ人は、その戦時中の様子をどうとらえていたのだろう」と。丸山は、ミルトン・マイヤーが当時のドイツ国内にいた言語学者にインタビューした(彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動-ミルトン・マイヤー/dp/4624110684″『彼らは自由だと思っていた』リンクは邦訳版)文を引用する。ここではマイヤーの文を私が拙訳した文でまとめる。 「この過程(ナチスが社会変革をしつつ、ドイツを思うがままに操っていく過程)の中で生きるということは、完全にその過程に気付けない、ということに等しい。…(人々も)農夫が自分の畑でとうもろこしが育っていくのを眺めるように、日々の移り変わりを眺めているのだ。ある日気づいて見ると、作物は自分の頭より高く育っているように」 この文章は、現在2015年を生きる日本人はどう捉えるべきなのだろう。ときに政治は緩く、ときに忙しく日本の世界に変化を与える。そのひとつひとつは小さなものだとしても、ひとつひとつを「しゃぁない」で済ませていないか。マイヤーのインタビューはこう続く 「そしてある日、全ては遅すぎる頃に…目の前で完全に本当に全てが変わってしまったことを目の当たりにするのだ。自分が住むこの世界も、国も、人々も、かつて自分が生まれ育ったところは遠く隔たった全く違うものにのになってしまった。取り巻く世界の形はなにもかもがそのままのはずなのに…みんな、外観と中身がイコールだと思い込んで生きてきたから、その変化に気付けないのだ。今自分が憎しみと恐怖の世界に住んでいて、同じく自分が憎しみ恐れていることに気づいてもいない。全員がひとときに変わってしまうとき、誰も変わっていないのと同じなのだ。」 こうして、ナチスによる大虐殺まで進んだとして、いまの政治はどうなんだろう、と考えるためにも、結末を熟考するときにきているんではないだろうか。 (以下にマイヤーのインタビューの該当部分を拙訳で引用します) [この過程(ナチスが社会変革をしつつ、ドイツを思うがままに操っていく過程)の中で生きるということは、完全にその過程に気付けない、ということに等しい。どうか信じてほしい。それに気づけるには、多くの人々が学んできたことよりもはるかに政治的洞察に秀でていない限り、無理だ。ひとつひとつの変化はとても小さく、実に巧妙で、とてもよく説明されていてた。時折”残念”に感じはしても、全ての過程から初めから離れて見ていない限りは、それらの全ての出来事が原理的にどういうことなのか理解できない。そして「愛国心を持つ国民」が理解できていなければ、そのひとつひとつの「小さな措置」はひっかかることなく過ぎ去ってしまう。農夫が自分の畑でとうもろこしが育っていくのを眺めるように、日々のうつり変わりを眺めるているのだ。ある日気がついてみると、作物は頭より高く育っているのだ。 [ふつうの人が、いや、高等教育を受けた人にでさえ、どうしたらよかったというのだろう。正直わからない。いまでもわからないのだ。全てが起こってしまってから、何度も何度も偉大なる一対の格言を私は熟考した。「端初に抵抗せよ」「結末を考えよ」…。しかし、それは初めに抵抗すべく、結末を予見しなければ、いや見ることだけでさえしなければいけない。結末を正しく明瞭に予知するなど、誰がどうしてできる?「もしかすると」「かもしれない」をみんな数えるだけなのだ。 [子供たちも、ナチの友人も、本当に社会主義に抗議しているわけではなかった。私のような市民たちの方が、過言かもしれないが、知識ではなく、なんとなく、という理由で、より犯罪を犯していたようなものだ。Pastor Niemoellerは私のような人間について、何度となく(謙遜して)語ったのだ。ナチが社会主義者たちを攻撃してたとき、自分は少し不安になったが、社会主義者ではないから何もしなかった。そしてそれから学校が、新聞社が、ユダヤ人たちが次々に攻撃され、日々不安はつのったが、なにもしなかった。そしてナチが教会を攻撃したとき、自分は牧師だったからやっと動いた。でも、それではもう遅すぎたのだ。 [当然だろう、誰もどこでどう動くべきか、確実に知っているわけではない。信じてほしい。これは本当の話なのだ。それぞれの行為、それぞれの事件はその前のものよりもたしかに悪くなっている。でもほんの少し悪くなっているだけなのだ。だから次を、次こそは、と待ちの姿勢になる。何か深刻なショッキングな事件が起こるのを待ち、他の人もそのショッキングな事件が起きた時に、どうにかしてともに抗うかもしれない、と考える。ひとりで立ち上がったり叫んだりはしたくないのだ。「トラブルを作りに自分の生活を乱したくない」のだ。なぜならレジスタンスの習慣がないからだ。それは恐怖だけではなく、ひとりだけで立ち上がる恐怖がその動きを抑制し、本当にためらいがちになるのだ。 [その躊躇はとても大きな要素であり、時間が流れると薄れるのではなく、大きく育ってしまう。外では、街では、ふつうのコミュニティでは”みんな”幸せそうなのだ。なんの抗議もないように思える。もちろんイタリアやフランスでは反政府運動のスローガンが壁やフェンスに描かれていただろうけれども、ドイツでは郊外でもおそらくそんなものはなかった。大学の友人と、自分の気の知れた友人に向かって個人的にこの不安を話してみても、「そんなに悪い世の中じゃないよ」とか「そう思えるだけさ」とか、挙げ句の果てには「君は脅かし屋だな」とまで言われてしまうのだ。 [こうして脅かし屋と呼ばれ、これらの事件がこれこれこうすると言ったところで証明も出来ない。ただはじまりが見えるだけなのだ。結末も知らないのに確信をどう持てるだろう。いや、推測でさえ難しいだろう。一方では自分の敵が、法律が、政府が、政党が自分を脅かし、他方では同僚が私のことを悲観的だとか、ノイローゼだとまでばかにする。そうして気の知れた親友たちから自然と疎遠になってしまう。 [友達が減り、何人かは移住し、また何人かは仕事に没頭する。集会や集まりで会う人数はもはや減り続け、グループは小さくなる。そして古くからの親しい友人にさえ、自分が感じているリアリティかを伝えられなくなり、自分自 身に話しかけるようになっていく。このスパイラルは自信を削ぎ、自分を抑えつけていく。つまり、もし何か行動を起こそうとすれば、それは事件となり、自分がトラブルメーカーとなってしまうため、ただただ、待つようになってしまうのだ。 [でも、何十人、何百人、何千人という人がともに立ち上がるようなショッキングな事件は決して起きないのだ。これが難点だ。もし、政府のこれまでの全てで最後の最悪の出来事が、最初のほんの小さな事件のすぐ後に起きていたら、何千人、いや何百万人の人々が本当にショックを受けて立ち上がっただろう。「たられば」だが言わせてほしい。もし、1933年の「ドイツの商店」というステッカーがユダヤ人以外の店先に貼られたすぐ後に、1943年のユダヤ人へのガス殺人が起きていたら…。しかし、そんな風には物事は進まないのだ。この間には何百という小さな段階があったし、その中には気付けないくらいの小さなステップもあった。そのひとつひとつの事件は、誰もが驚かないように、順番に準備されているのだ。例えば、Cという状況はBという状況と比べてそこまで悪くなっていないとする。このとき、Bのときにも立ち止まらなかったのに、Cでなぜ立ち止まるだろう?そうやってD、E、F…と続いていくのだ。 [そしてある日、全ては遅すぎる頃に、あなたの良心が自分をひといきに襲うのだ。自己欺瞞の重荷はいよいよ重くなり、小さないくつかのことが一気に起こる。私のケースなら、息子が赤ちゃんから子どもと呼べるくらいに成長したころに、「ユダヤ人の豚どもめ」と言ったことから始まった。そうして目の前で完全に本当に全てが変わってしまったことを目の当たりにするのだ。自分が住むこの世界も、国も、人々も、かつて自分が生まれ育ったところは遠く隔たった全く違うものにのになってしまった。取り巻く世界の形はなにもかもがそのままのはずなのに、家も、店も、仕事も、食事も、訪ねていくことも訪ねてくる人も、コンサートも、映画も、休日も、そのままあるはずなのに、魂はすっかり変わり果ててしまっている。でも、みんな、外観と中身がイコールだと思い込んで生きてきたから、その変化に気付けないのだ。今自分が憎しみと恐怖の世界に住んでいて、同じく自分が憎しみ恐れていることに気づいてもいない。全員がひとときに変わってしまうとき、誰も変わっていないのと同じなのだ。」 以下原文。>>>>>>>>>> “To live in this process is absolutely not to be able to notice it— please try to believe me— unless one has a much greater degree of political awareness, acuity, than most of us had […]

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Osaka Walking Along(2013.3.14-2013.3.20)

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June 4 2015

These days I started reading “The Sea of Fertility,” written by Yukio Mishima, to understand what Michael Fried insisted in his book(http://yalepress.yale.edu/book.asp?isbn=9780300136845), and some were found from Mishima’s literature; his depiction with his words are actually picturesque, and he represented what is the action to behold, stare or see. Photographs can’t be taken until the […]

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Drafts01

Here I’ve not written here so long because of my new works and new idea, so today I think I will write this idea below. It’s been said that “Photography would be art,” and I really think so. No. It’s sure it’s art all along. This topic is crap. But we all who is making […]

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PhotoLog : “thetis”, Fujimori Megumi Exhibition

After taking a part in the competition, a kind of portfolio review, I dropped by the exhibition, ’cause I was so impressed at her previous exhibition, “cynthia,” that it made me write its log here before. In new exhibition, there were some pictures which I’ve seen there before; this new work would be the sequel. But also […]

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About Seeds

野口種苗 野口のタネ 野口種苗研究所 He tells so important things even from the point of view of theory. Sometimes political matters make me silent and think over, though, it’s because I think the same thing as a choice.Although the religion might have begun from the fear to the nature, now human are leaving those feelings, aren’t we? This era […]

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PhotoLog : “cynthia”, Fujimori Megumi Exhibition

White gallery, white dark. These phrases occurred to me while I was at the exhibition. Each photograph is polaroid picture nostalgic and sentimental with something she gazed and touched in her own life. Snow scenery or daily life she took up and ordered them here cooly, though, some of them put together in a frame, […]

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PhotoLog; アイヌ、風の肖像 宇井 眞紀子 写真展 PhotExhibition Makiko UI, “Ainu, portraits in the wind”

The photo-exhibition by my teacher, who is as old as my mother and whose photos I’ve wanted to see for a long time, finally I’ve visited and saw her photographs there. Here, I write down what I thought there. Honestly, what I remember from the word, “Ainu,” is only the cruel historical event which was […]

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PhotoLog; my own Exhibition, “Oneness”

I thought over the word, “picturesque,” which was used in early 19C when photograph was born and used as the samples for paintings; how can I make this word reborn? I tried many kinds of moquettes and reached this work, “Oneness“, I didn’t mention this on my exhibition, but here to say that I took […]

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PhotoLog: Ota Akihiko’s Exhibition, “blown’ the wind”

At Osaka Nikon Salon 3/14-3/20http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2013/03_osaka.htm#03 “Seasons come appeared on your pictures.”What my teacher told me before, when I was led by him while making my first work, titled “River Series”, occurred to my mind. Mr. Ota Akihiko’s photographs present us the running of time in the village through the season; from spring, to summer, fall […]

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PhotoLog : Miwa Togashi Exhibition “日々徒然”(Daily Idleness)

    12th Mar.Went to a few exhibitions in Tokyo, Miwa Togashi exhibition “日々徒然”, Masatoshi Nakamura exhibition in Futago-Tamagawa, and Tota Kikuchi exhibition “白亜紀の海 2”.Mr. Kikuchi is my teacher, in my school days, and many reviews of his exhibition would be written, so I might have to start writing about my junior fellow, Miwa Togashi’s […]

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索漠(仮)[SAKU-BAKU(temp)].057

Cut from “索漠”(仮). No.057 What does it mean to take pictures without thinking anything while walking around and talking with people? Many take pictures themselves each other, and enjoy looking at these. Photography for most of people have only such functions, and I think it’s enough of photography to be.So I walk around edges of […]

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IMG_1645.jpg

Water When we clean our HDD or SD cards, we have to face a lot of pictures which we don’t remember when nor where we took them, and they force us remind what happened at that time when we took the picture, and also force us face the scene or situation.Pictures are always things of […]

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from our conversation Dec08/2012

Conversation last night; Should be those who can make under any psychiatric condition. Works’d not be done with nor from that condition. She told if I can take some good pieces under awful mental condition, it’s the ability of mine surely. She insisted again; Photography isn’t fine art like paintings or sculptures, but it also […]

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Modern or Post-Modern?

Photography is the media that appeared mid 19C, the era which “Science” started to lead the world as one of the ideology after IR. The modern art was also born around this period. It might be difficult for us to imagine the life without any movies or photographs, however, the life at that time was […]

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From tweets on 26th Dec 2012

A friend asked me if we can make works mixed press photos and photography art. He told me that he was denied by our teachers. And I wonder, if the deny is true, what I’m doing should be? Also he told me that he didn’t know much knowledge of theories and history of art.On the […]

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Review of “Caché”(on 25 Jan.)

I’ve seen “Caché”, by Michael Haneke, which Takeshi Arthur Thornton recommended. I bought this DVD and today I got it.This movie makes me think over the matter of privacy and problems between France and Algeria… It’s so meaningful and interesting, and very good subject matter to understand the affair in Algeria this January…It was the […]

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Project: Faces of Cities// Asian Today

The slideshow of my photo works named “Asian Today,” which I held two exhibitions in 2009 in Japan.This is that I described at the last post.And for this movie, I composed a new ambient song, “Thailand Smokes”.Special thanks to Fukiko Fujita, who sampled sounds and noises in Thailand.

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What I talked today @talkshow at DoubleTallCafe in Shibuya

About my photo project, Faces of Cities, particularly Asian Today, which I held two exhibitions at NikonSalon, I had a chance to describe.I write down below; Today I will talk about a part of situations of Asian countries. I think 2 other girls will tell you something more specific because they worked as internships there. […]

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From tweets on 23 Aug. 2010

The more and more I go around Japan, the more and more things get established in some parts. There’s very little difference of culture among each of the area, cities or towns. So I can never feel the dynamic emotion which I feel when going across the border between countries abroad. But I wanna say […]

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PhotoLog : Went to see the exhibition of “Future Light Project”

Went to see the exhibition of the project by my alma mater, “Future Light Project.”http://www.npi.ac.jp/blog/flp/2013/01/post_14.html (I really like this project’s name, don’t you think so?) So writing what I thought below; While I was on the train from Yokohama to Shibuya, I was wondering the question; what photography can deal or act as.Recently photography is […]

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PhotoLog:FutureLightProject「そして、今」

母校のプロジェクトであるFutureLightProjectの写真展に行ってきた。感想を書く。  以下感想  横浜駅から渋谷駅までJR線に乗っている間中、「写真というメディアが担える事柄」について考えていた。  写真がアートの中心として重要な位置を占めるようになってきていて、そうした中で「美術」の枠組みの中に写真が大きく組み込まれてくるようになった。「芸術」という広い枠組みではなく、「美術」の中に写真というメディアの可能性がぐんぐん拓かれていって、そういう写真にばっかり触れていたのもあって、このプロジェクトが抱える写真という「現実性」とか、「意味性の強さ」というものが新鮮に感じた。そもそも僕ははじめはそっち側にいたはずだったし、今でもそうだと思うのだけれども。 写真が広告や記念写真や報道や遊びや学びや、その他様々なところで使われる中、「展示する」ということの意味が今は問われる時なのだと思う。デジカメが主流になり、右クリックでコピーが出来るし、Control+C,+Vでコピペが出来るし、そういう中で、写真というもの、映像というものがありふれたものになった以上、身体体験というものがどうしても不可欠になるんじゃないか、という過程の末にできた現状なんだろう。  そう考えていくと、今回の展示の目玉は5階にポールを並べて、ぐるっと観者を取り囲む気仙の写真だろう。  光景というものは、眼球によって制限されている。視界の角度はだいたい60度弱程度しかなくて、その視界の外側にあるものを見ようとすると、その元々視界に入っていた光景は視界の外へ消えていく。更に、その光景に近づこうとすると、その視野は相対的に狭くなり、ディテールを求めるがあまりマクロな風景はやはり見えなくなる。  この首の動きと足の動きを一時停止させ、光景を焼き付けたその世界を、近づいて見ることが出来る。視角と距離とを体感するインスタレーションだった。興味深かったのは、左端と右端は本当は観者の背中の位置で接合するように撮られていて、その360度の光景を平面に表した上で、アナログ的に立体に仕上げていた点だ。360度囲ってしまうと物理的に難しくなってしまう故の展示の形式なのだろうが、これが絶妙だった。この視角と距離とを体感する広大なインスタレーションの中に気仙沼の風景がおさまっていることが意味深い。 ポートレートは淡々としていて、でも人々の表情から、どこまで入り込んでいるかがわかりやすいシンプルな構成だった。ルポ、という形式を6階で体感して、5階で表現に触れてきた、とでもいうのか。非常に濃い内容の展示。  そもそも、「ルポをしに現地に行く」という行動が意味深くて、その意味の先に出てくる形式がどう、というのは空論のようなもので、そう捉えてしまえば、本当に僕の感想なんてたいしたことはないのだが、そのルポを観に行く、ということでひとつの達成感を与えてくれるような展示だった。

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