Posts

Exhibition “凪” will be held

NAGI凪 凪と遠雷-Ordinary and Calm-(Fare & Qe) YAMAICHI, Naosuke Solo photo-exhibition Sep. 6. 2021 ~ Sep. 19. 202113:00-19:00at Sokyusha You can also download PDF version here link.

0 comments

Exhibition “KUCHINASHI” will be held.

KUCHINASHI 梔子 YAMAICHI, Naosuke Solo photo-exhibition Sep. 16. 2019 ~ Sep. 29. 2019 13:00-19:00 at Sokyusha You can also download PDF version here link.

0 comments

Publish: Photos from “Operation Iceberg Sites” are ran in magazine

Some pictures are ran on the magazine, “世界” , published by Iwanami, Japan Details information are below; https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b454586.html

0 comments

Publishment : “Operation Iceberg Sites”

Shop Website>> https://baumfoto.thebase.in/items/16580606

0 comments

NEW PAGE UPDATED

NEW WORK>>> “Operation Iceberg Sites”

0 comments

Attend at fotofever in Paris

Now attending at an event in Paris, “fotofever”, http://www.fotofever.com/exhibitors/fair/fotofever-paris-2018/9 and started selling a new book, “Operation Iceberg Sites”. This publication PR will be noticed on this website soon.

0 comments

Exhibition “TOKIWA-GI” has started.

My new exhibition, titled “TOKIWA-GI”, has started. This title means “evergreen”. 21 gelatine silver prints. At Sokyu-sha, in Shinjuku, Tokyo Japan. 3F, 1-3-5, Shinjuku, Tokyo 1600022, Japan.

0 comments

Will hold an Exhibition “TOKIWAGI”

NEW EXHIBITION INFORMATION “常磐樹(TOKIWAGI)”, Around 25 B/W photographs taken in Tochigi, Japan July 16 2018 – July 29 2018 At Sokyusha Gallery in Shinjuku, Tokyo. http://www.sokyusha.com/gallery/index.html

0 comments

Started Crowd-Funding at Makuake

For project of [BAUM], we started crowdfunding at Makuake, Japanese biggest crowdfunding web company. Please check it out here.

0 comments

Started a new Project: “BAUM”

Started a new group project, “BAUM”, it was founded by 5 photographers; Sho Kosuda, Akikami Kanda, Koyata Saitoh, Hatsuki Oku, and I. Details can be seen here: “http://baum-foto.info/“

0 comments

Joined “STEP OUT! 2017”

Joined an event “STEP OUT! 2017” held by IMA.( on July 1st)

0 comments

Exhibition was closed

The exhibition held in Tokyo, named “Withering Field” was closed. Thank you for coming and seeing them.

0 comments

Photo Exhibition Started.

My new photo exhibition has started. From 6th February to 19th in Tokyo. Please visit and see them. Check the information here.

0 comments

Webpage updated.

The Script for “Withering Field” was updated. Here.

0 comments

Once: Past-Future tense/activity log(20161211)

On 11 Dec, 2016 Visited some places; Truya, Itoman City(26°07’58.4″N 127°40’42.8″E) Kuniyoshi Ridge, Itoman City(26°07’22.5″N 127°40’42.2″E): at this place a hard battles was fought between 12 to 16 June 1945. After US troops broke through this ridge, Japanese army and people suffered catastrophic damage. Shiraume no Tou(26°06’59.1″N 127°41’10.6″E): See details here.(in Japanese only) Yamagata no […]

0 comments

Once: Past-Future tense/ activity log(20161204)

On 4 Dec. 2016, Visited some places; Yonabaru(26°12’05.9″N 127°45’14.9”E) Near TSUTAYA Yonabaru Shop(26°11’54.8″N 127°44’46.0”E): This place was called Oak Hill. 24th May 1945 they broke through. 県営大里団地(Ozato Apartment houses) (26°10’43.1″N 127°44’43.0”E): 2nd June 1945 Duck(26°11’03.9″N 127°44’16.4”E): 26th May 1945 Back of Hakugin Hospital (26°08’07.5″N 127°40’12.4”E): 10th June 1945, they broke through, and after this attack, […]

0 comments

Once: Past-Future tense/ vol.7

As you can see the following map, the U.S. troops had come down along red lines. They charged forward separately both east and west side. East one was the Rocky Crags. West one was the Skyline Ridge. Southern half of Okinawa Island consists karst landform, so there are many caves, pinnacles and sinkholes. It means […]

0 comments

Once: Past-Future tense/ vol.3

At first, I thought like this; “I have to visit places from the first point where all the thing had begun. It means the point where they’d landed in 1945.” For this, I had to look into the correct points from notes. (the author of this website has been studying so hard that I could […]

0 comments

Once: Past-Future tense/ vol.2

  Near the coast of Sobe in Yomitan vill., Okinawa.(Through the Google Map Street View)     At first, in the morning on April 1st, they had landed. They would kill and rob everything from us. Before things happened, we’d better die in mass suicide. Is that correct as thoughts of people at that time? […]

0 comments

Once: Past-Future tense/ vol.1

I’m photographing in Okinawa. This geographical name, “Okinawa,” is always very political; this might be the fate of the name. It’s past over 70 years, though.  The scenery which I’m walking around and taking pictures of is just only “Okinawa,” a “thing which there’s here now,” but never a “thing which there’d been once.” In […]

0 comments

Digital tattoo

Pictures and movies, which are uploaded on web, can’t be delated easily: this fact is very popular and commonplace. I usually surf web, especially Facebook, Twitter or such SNSs, and see pictures of children. Their parents upload their picture. This is because, I guess, they want to share their happiness, but do those parents really […]

0 comments

My view on the politics in Japan today

I will translate the weblog on 14thJune in English. These days again I’m reading a book, “The literatures today,” actually it was my textbook of Japanese in my high school days. It also includes the section 8 in chapter3 of “Thought and Behaviour in Modern Japanese Politics.” He described Charlie Chaplin showed how “aberrations” behave […]

0 comments

日本の政治についての所感2015.6.14

今日は日本語でかきます。 高校の現国の教科書でもあった『現代の文章』を、ここ最近読み直している。この中に、丸山真男氏の『現代政治の思想と行動』の第3部8節が抜粋されている。そこではチャップリンが「倒錯した人々」がどのように振る舞うのかを映画の中で示していることが指摘されている。チャップリンの代表作は『独裁者』だろう。もちろん、『モダン・タイムス』もとても有名だしポピュラーだし、意義深いものだ。丸山氏も『モダン・タイムス』の中でチャップリンが世界で起こりうる倒錯をえぐり出す鋭さをいかにみせていたかを問うている。しかし、ぼくは『独裁者』がより、今の時代として、重要であると感じるのだ。 この本で丸山が主張したのは他でもない、ナチスという怪物がドイツを掌握していった原理の点だ。倒錯した世界の人々には、自分たちは倒錯しているようには見えない。そのことをチャップリンは、逆さまに飛行する飛行機に乗るふたりの人物でも如実に示している。そこで彼は当然の疑問に立ち止まる。「それではドイツ人は、その戦時中の様子をどうとらえていたのだろう」と。丸山は、ミルトン・マイヤーが当時のドイツ国内にいた言語学者にインタビューした(彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動-ミルトン・マイヤー/dp/4624110684″『彼らは自由だと思っていた』リンクは邦訳版)文を引用する。ここではマイヤーの文を私が拙訳した文でまとめる。 「この過程(ナチスが社会変革をしつつ、ドイツを思うがままに操っていく過程)の中で生きるということは、完全にその過程に気付けない、ということに等しい。…(人々も)農夫が自分の畑でとうもろこしが育っていくのを眺めるように、日々の移り変わりを眺めているのだ。ある日気づいて見ると、作物は自分の頭より高く育っているように」 この文章は、現在2015年を生きる日本人はどう捉えるべきなのだろう。ときに政治は緩く、ときに忙しく日本の世界に変化を与える。そのひとつひとつは小さなものだとしても、ひとつひとつを「しゃぁない」で済ませていないか。マイヤーのインタビューはこう続く 「そしてある日、全ては遅すぎる頃に…目の前で完全に本当に全てが変わってしまったことを目の当たりにするのだ。自分が住むこの世界も、国も、人々も、かつて自分が生まれ育ったところは遠く隔たった全く違うものにのになってしまった。取り巻く世界の形はなにもかもがそのままのはずなのに…みんな、外観と中身がイコールだと思い込んで生きてきたから、その変化に気付けないのだ。今自分が憎しみと恐怖の世界に住んでいて、同じく自分が憎しみ恐れていることに気づいてもいない。全員がひとときに変わってしまうとき、誰も変わっていないのと同じなのだ。」 こうして、ナチスによる大虐殺まで進んだとして、いまの政治はどうなんだろう、と考えるためにも、結末を熟考するときにきているんではないだろうか。 (以下にマイヤーのインタビューの該当部分を拙訳で引用します) [この過程(ナチスが社会変革をしつつ、ドイツを思うがままに操っていく過程)の中で生きるということは、完全にその過程に気付けない、ということに等しい。どうか信じてほしい。それに気づけるには、多くの人々が学んできたことよりもはるかに政治的洞察に秀でていない限り、無理だ。ひとつひとつの変化はとても小さく、実に巧妙で、とてもよく説明されていてた。時折”残念”に感じはしても、全ての過程から初めから離れて見ていない限りは、それらの全ての出来事が原理的にどういうことなのか理解できない。そして「愛国心を持つ国民」が理解できていなければ、そのひとつひとつの「小さな措置」はひっかかることなく過ぎ去ってしまう。農夫が自分の畑でとうもろこしが育っていくのを眺めるように、日々のうつり変わりを眺めるているのだ。ある日気がついてみると、作物は頭より高く育っているのだ。 [ふつうの人が、いや、高等教育を受けた人にでさえ、どうしたらよかったというのだろう。正直わからない。いまでもわからないのだ。全てが起こってしまってから、何度も何度も偉大なる一対の格言を私は熟考した。「端初に抵抗せよ」「結末を考えよ」…。しかし、それは初めに抵抗すべく、結末を予見しなければ、いや見ることだけでさえしなければいけない。結末を正しく明瞭に予知するなど、誰がどうしてできる?「もしかすると」「かもしれない」をみんな数えるだけなのだ。 [子供たちも、ナチの友人も、本当に社会主義に抗議しているわけではなかった。私のような市民たちの方が、過言かもしれないが、知識ではなく、なんとなく、という理由で、より犯罪を犯していたようなものだ。Pastor Niemoellerは私のような人間について、何度となく(謙遜して)語ったのだ。ナチが社会主義者たちを攻撃してたとき、自分は少し不安になったが、社会主義者ではないから何もしなかった。そしてそれから学校が、新聞社が、ユダヤ人たちが次々に攻撃され、日々不安はつのったが、なにもしなかった。そしてナチが教会を攻撃したとき、自分は牧師だったからやっと動いた。でも、それではもう遅すぎたのだ。 [当然だろう、誰もどこでどう動くべきか、確実に知っているわけではない。信じてほしい。これは本当の話なのだ。それぞれの行為、それぞれの事件はその前のものよりもたしかに悪くなっている。でもほんの少し悪くなっているだけなのだ。だから次を、次こそは、と待ちの姿勢になる。何か深刻なショッキングな事件が起こるのを待ち、他の人もそのショッキングな事件が起きた時に、どうにかしてともに抗うかもしれない、と考える。ひとりで立ち上がったり叫んだりはしたくないのだ。「トラブルを作りに自分の生活を乱したくない」のだ。なぜならレジスタンスの習慣がないからだ。それは恐怖だけではなく、ひとりだけで立ち上がる恐怖がその動きを抑制し、本当にためらいがちになるのだ。 [その躊躇はとても大きな要素であり、時間が流れると薄れるのではなく、大きく育ってしまう。外では、街では、ふつうのコミュニティでは”みんな”幸せそうなのだ。なんの抗議もないように思える。もちろんイタリアやフランスでは反政府運動のスローガンが壁やフェンスに描かれていただろうけれども、ドイツでは郊外でもおそらくそんなものはなかった。大学の友人と、自分の気の知れた友人に向かって個人的にこの不安を話してみても、「そんなに悪い世の中じゃないよ」とか「そう思えるだけさ」とか、挙げ句の果てには「君は脅かし屋だな」とまで言われてしまうのだ。 [こうして脅かし屋と呼ばれ、これらの事件がこれこれこうすると言ったところで証明も出来ない。ただはじまりが見えるだけなのだ。結末も知らないのに確信をどう持てるだろう。いや、推測でさえ難しいだろう。一方では自分の敵が、法律が、政府が、政党が自分を脅かし、他方では同僚が私のことを悲観的だとか、ノイローゼだとまでばかにする。そうして気の知れた親友たちから自然と疎遠になってしまう。 [友達が減り、何人かは移住し、また何人かは仕事に没頭する。集会や集まりで会う人数はもはや減り続け、グループは小さくなる。そして古くからの親しい友人にさえ、自分が感じているリアリティかを伝えられなくなり、自分自 身に話しかけるようになっていく。このスパイラルは自信を削ぎ、自分を抑えつけていく。つまり、もし何か行動を起こそうとすれば、それは事件となり、自分がトラブルメーカーとなってしまうため、ただただ、待つようになってしまうのだ。 [でも、何十人、何百人、何千人という人がともに立ち上がるようなショッキングな事件は決して起きないのだ。これが難点だ。もし、政府のこれまでの全てで最後の最悪の出来事が、最初のほんの小さな事件のすぐ後に起きていたら、何千人、いや何百万人の人々が本当にショックを受けて立ち上がっただろう。「たられば」だが言わせてほしい。もし、1933年の「ドイツの商店」というステッカーがユダヤ人以外の店先に貼られたすぐ後に、1943年のユダヤ人へのガス殺人が起きていたら…。しかし、そんな風には物事は進まないのだ。この間には何百という小さな段階があったし、その中には気付けないくらいの小さなステップもあった。そのひとつひとつの事件は、誰もが驚かないように、順番に準備されているのだ。例えば、Cという状況はBという状況と比べてそこまで悪くなっていないとする。このとき、Bのときにも立ち止まらなかったのに、Cでなぜ立ち止まるだろう?そうやってD、E、F…と続いていくのだ。 [そしてある日、全ては遅すぎる頃に、あなたの良心が自分をひといきに襲うのだ。自己欺瞞の重荷はいよいよ重くなり、小さないくつかのことが一気に起こる。私のケースなら、息子が赤ちゃんから子どもと呼べるくらいに成長したころに、「ユダヤ人の豚どもめ」と言ったことから始まった。そうして目の前で完全に本当に全てが変わってしまったことを目の当たりにするのだ。自分が住むこの世界も、国も、人々も、かつて自分が生まれ育ったところは遠く隔たった全く違うものにのになってしまった。取り巻く世界の形はなにもかもがそのままのはずなのに、家も、店も、仕事も、食事も、訪ねていくことも訪ねてくる人も、コンサートも、映画も、休日も、そのままあるはずなのに、魂はすっかり変わり果ててしまっている。でも、みんな、外観と中身がイコールだと思い込んで生きてきたから、その変化に気付けないのだ。今自分が憎しみと恐怖の世界に住んでいて、同じく自分が憎しみ恐れていることに気づいてもいない。全員がひとときに変わってしまうとき、誰も変わっていないのと同じなのだ。」 以下原文。>>>>>>>>>> “To live in this process is absolutely not to be able to notice it— please try to believe me— unless one has a much greater degree of political awareness, acuity, than most of us had […]

0 comments

Osaka Walking Along(2013.3.14-2013.3.20)

0 comments

June 4 2015

These days I started reading “The Sea of Fertility,” written by Yukio Mishima, to understand what Michael Fried insisted in his book(http://yalepress.yale.edu/book.asp?isbn=9780300136845), and some were found from Mishima’s literature; his depiction with his words are actually picturesque, and he represented what is the action to behold, stare or see. Photographs can’t be taken until the […]

0 comments

Drafts01

Here I’ve not written here so long because of my new works and new idea, so today I think I will write this idea below. It’s been said that “Photography would be art,” and I really think so. No. It’s sure it’s art all along. This topic is crap. But we all who is making […]

0 comments

PhotoLog : “thetis”, Fujimori Megumi Exhibition

After taking a part in the competition, a kind of portfolio review, I dropped by the exhibition, ’cause I was so impressed at her previous exhibition, “cynthia,” that it made me write its log here before. In new exhibition, there were some pictures which I’ve seen there before; this new work would be the sequel. But also […]

0 comments

About Seeds

野口種苗 野口のタネ 野口種苗研究所 He tells so important things even from the point of view of theory. Sometimes political matters make me silent and think over, though, it’s because I think the same thing as a choice.Although the religion might have begun from the fear to the nature, now human are leaving those feelings, aren’t we? This era […]

0 comments

PhotoLog : “cynthia”, Fujimori Megumi Exhibition

White gallery, white dark. These phrases occurred to me while I was at the exhibition. Each photograph is polaroid picture nostalgic and sentimental with something she gazed and touched in her own life. Snow scenery or daily life she took up and ordered them here cooly, though, some of them put together in a frame, […]

0 comments

PhotoLog; アイヌ、風の肖像 宇井 眞紀子 写真展 PhotExhibition Makiko UI, “Ainu, portraits in the wind”

The photo-exhibition by my teacher, who is as old as my mother and whose photos I’ve wanted to see for a long time, finally I’ve visited and saw her photographs there. Here, I write down what I thought there. Honestly, what I remember from the word, “Ainu,” is only the cruel historical event which was […]

0 comments

PhotoLog; my own Exhibition, “Oneness”

I thought over the word, “picturesque,” which was used in early 19C when photograph was born and used as the samples for paintings; how can I make this word reborn? I tried many kinds of moquettes and reached this work, “Oneness“, I didn’t mention this on my exhibition, but here to say that I took […]

0 comments

PhotoLog: Ota Akihiko’s Exhibition, “blown’ the wind”

At Osaka Nikon Salon 3/14-3/20http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2013/03_osaka.htm#03 “Seasons come appeared on your pictures.”What my teacher told me before, when I was led by him while making my first work, titled “River Series”, occurred to my mind. Mr. Ota Akihiko’s photographs present us the running of time in the village through the season; from spring, to summer, fall […]

0 comments

PhotoLog : Miwa Togashi Exhibition “日々徒然”(Daily Idleness)

    12th Mar.Went to a few exhibitions in Tokyo, Miwa Togashi exhibition “日々徒然”, Masatoshi Nakamura exhibition in Futago-Tamagawa, and Tota Kikuchi exhibition “白亜紀の海 2”.Mr. Kikuchi is my teacher, in my school days, and many reviews of his exhibition would be written, so I might have to start writing about my junior fellow, Miwa Togashi’s […]

1 comment

索漠(仮)[SAKU-BAKU(temp)].057

Cut from “索漠”(仮). No.057 What does it mean to take pictures without thinking anything while walking around and talking with people? Many take pictures themselves each other, and enjoy looking at these. Photography for most of people have only such functions, and I think it’s enough of photography to be.So I walk around edges of […]

0 comments

IMG_1645.jpg

Water When we clean our HDD or SD cards, we have to face a lot of pictures which we don’t remember when nor where we took them, and they force us remind what happened at that time when we took the picture, and also force us face the scene or situation.Pictures are always things of […]

0 comments

from our conversation Dec08/2012

Conversation last night; Should be those who can make under any psychiatric condition. Works’d not be done with nor from that condition. She told if I can take some good pieces under awful mental condition, it’s the ability of mine surely. She insisted again; Photography isn’t fine art like paintings or sculptures, but it also […]

0 comments

Modern or Post-Modern?

Photography is the media that appeared mid 19C, the era which “Science” started to lead the world as one of the ideology after IR. The modern art was also born around this period. It might be difficult for us to imagine the life without any movies or photographs, however, the life at that time was […]

0 comments

From tweets on 26th Dec 2012

A friend asked me if we can make works mixed press photos and photography art. He told me that he was denied by our teachers. And I wonder, if the deny is true, what I’m doing should be? Also he told me that he didn’t know much knowledge of theories and history of art.On the […]

0 comments

Review of “Caché”(on 25 Jan.)

I’ve seen “Caché”, by Michael Haneke, which Takeshi Arthur Thornton recommended. I bought this DVD and today I got it.This movie makes me think over the matter of privacy and problems between France and Algeria… It’s so meaningful and interesting, and very good subject matter to understand the affair in Algeria this January…It was the […]

0 comments

Project: Faces of Cities// Asian Today

The slideshow of my photo works named “Asian Today,” which I held two exhibitions in 2009 in Japan.This is that I described at the last post.And for this movie, I composed a new ambient song, “Thailand Smokes”.Special thanks to Fukiko Fujita, who sampled sounds and noises in Thailand.

0 comments

What I talked today @talkshow at DoubleTallCafe in Shibuya

About my photo project, Faces of Cities, particularly Asian Today, which I held two exhibitions at NikonSalon, I had a chance to describe.I write down below; Today I will talk about a part of situations of Asian countries. I think 2 other girls will tell you something more specific because they worked as internships there. […]

0 comments

From tweets on 23 Aug. 2010

The more and more I go around Japan, the more and more things get established in some parts. There’s very little difference of culture among each of the area, cities or towns. So I can never feel the dynamic emotion which I feel when going across the border between countries abroad. But I wanna say […]

0 comments

PhotoLog : Went to see the exhibition of “Future Light Project”

Went to see the exhibition of the project by my alma mater, “Future Light Project.”http://www.npi.ac.jp/blog/flp/2013/01/post_14.html (I really like this project’s name, don’t you think so?) So writing what I thought below; While I was on the train from Yokohama to Shibuya, I was wondering the question; what photography can deal or act as.Recently photography is […]

0 comments

PhotoLog:FutureLightProject「そして、今」

母校のプロジェクトであるFutureLightProjectの写真展に行ってきた。感想を書く。  以下感想  横浜駅から渋谷駅までJR線に乗っている間中、「写真というメディアが担える事柄」について考えていた。  写真がアートの中心として重要な位置を占めるようになってきていて、そうした中で「美術」の枠組みの中に写真が大きく組み込まれてくるようになった。「芸術」という広い枠組みではなく、「美術」の中に写真というメディアの可能性がぐんぐん拓かれていって、そういう写真にばっかり触れていたのもあって、このプロジェクトが抱える写真という「現実性」とか、「意味性の強さ」というものが新鮮に感じた。そもそも僕ははじめはそっち側にいたはずだったし、今でもそうだと思うのだけれども。 写真が広告や記念写真や報道や遊びや学びや、その他様々なところで使われる中、「展示する」ということの意味が今は問われる時なのだと思う。デジカメが主流になり、右クリックでコピーが出来るし、Control+C,+Vでコピペが出来るし、そういう中で、写真というもの、映像というものがありふれたものになった以上、身体体験というものがどうしても不可欠になるんじゃないか、という過程の末にできた現状なんだろう。  そう考えていくと、今回の展示の目玉は5階にポールを並べて、ぐるっと観者を取り囲む気仙の写真だろう。  光景というものは、眼球によって制限されている。視界の角度はだいたい60度弱程度しかなくて、その視界の外側にあるものを見ようとすると、その元々視界に入っていた光景は視界の外へ消えていく。更に、その光景に近づこうとすると、その視野は相対的に狭くなり、ディテールを求めるがあまりマクロな風景はやはり見えなくなる。  この首の動きと足の動きを一時停止させ、光景を焼き付けたその世界を、近づいて見ることが出来る。視角と距離とを体感するインスタレーションだった。興味深かったのは、左端と右端は本当は観者の背中の位置で接合するように撮られていて、その360度の光景を平面に表した上で、アナログ的に立体に仕上げていた点だ。360度囲ってしまうと物理的に難しくなってしまう故の展示の形式なのだろうが、これが絶妙だった。この視角と距離とを体感する広大なインスタレーションの中に気仙沼の風景がおさまっていることが意味深い。 ポートレートは淡々としていて、でも人々の表情から、どこまで入り込んでいるかがわかりやすいシンプルな構成だった。ルポ、という形式を6階で体感して、5階で表現に触れてきた、とでもいうのか。非常に濃い内容の展示。  そもそも、「ルポをしに現地に行く」という行動が意味深くて、その意味の先に出てくる形式がどう、というのは空論のようなもので、そう捉えてしまえば、本当に僕の感想なんてたいしたことはないのだが、そのルポを観に行く、ということでひとつの達成感を与えてくれるような展示だった。

0 comments

水の滴る色(20)

2011年11月14日 昨夜の腰痛だのなんだのがあったのか、すっきりしない朝。暗いうちに目が覚めて、もう一度眠って、次に目が覚めたら、喉が痛かった。乾き切った喉。そうだ。僕は眠るとき、どうしても鼻が詰まるから、口を開く。マスクは必須なんだ、と思い出す。 体がなんだか重くて、たぶん疲れているんだろうけれど、ちゃんと休みは取っているんだけどな、と思いながら、準備をして、部屋を出る。 今日もキエフは曇り。結局1日も晴れた空を見ること無く、キエフを出ていくことになりそう。 ゆるい坂を上る。一昨日、キエフの聖ソフィア聖堂へ続く坂道だ。この坂を越えると、初日登ったウラージミルの丘にも出ることが出来る。その丘に出ずに、インターコンチの脇を通り抜け、道なりに坂を下って行くと、アンドレイ坂にでることができる。アンドレイ坂はアンドレイ教会のある坂で、キエフという町が辿った歴史を考えるととても重要な坂になる。この教会はキエフの古都を一望できる丘に建っており、その姿は旧市街のどこからでも見ることが出来る。 この後、旧市街を僕は30分程メトロ駅を探して彷徨うことになるのだが、不親切な地球の歩き方に載っている地図を諦めた後は、この教会の姿だけで方角を把握し、無事、メトロ駅を探し当てることが出来た。 話は戻るが、このアンドレイ教会。今は工事中で、中に入ることは出来なかった。坂も大々的に工事中で、脇道をぎりぎり人が三人並んで歩ける程度の囲いで残しているだけだった。そしてこの脇道に露店がずらりと並ぶ。 この露店、この辺りの人が観光客相手に行う土産屋さんなのだが、キエフの冬はやってきているようで、僕が通ったとき、ようやく家から出て来て準備をしている人もいた。 その露店の1つで、素敵なカップを見つけ、セットで買った。最近、値切る、という行為を全くしなくなった。言い値通りに支払って、それでも16UAHで、日本だったらペットボトルのお茶一本くらいしか買えない。 そのアンドレイ坂を下って行くと、左手に階段があり、それを登ると小高い丘になっていた。坂は途中二股に分かれるのだけれど、その二股両方の光景を見下ろすことが出来た。そして双方、絶壁。 丘、というと、僕は横浜に住んでいた四年間、丘の上に住んでいて、それはもう毎日上り下りで辛い目にあったのだけれど、見晴らしの良さと風通しの良さで本当に気に入っていた土地だった。横浜はいまだに好きになれないのだけれど、あそこは本当に好きだった。 この見晴らしや、下の町のどこからでも見上げることが出来る教会を見ていると、昔、丘という場所が特別な意味を確かに持っていたんだな、と実感することが出来る。盆地に町が出来、平地に町が出来る。それを見下ろすような丘や山に神聖な場所が創られ、そこに次第に権力が集まって行く。 だから人は高い建造物を造りたがるんだろうか。 そんなことを思いながら、でも、それは道に迷ってかき消された。迷ったおかげで立ち寄るはずだった博物館も見つけられず、見逃してしまった。 結局、当初乗る予定だった駅よりも一駅中心部に近い駅からメトロに乗る。 メトロに乗る、という行為はほんとうに都市的な行為だと感じる。黙って乗車券の金額を駅員に差し出せばトークンが渡され、それを改札に入れれば乗れる。路線は色で塗り分けられ、駅名は番号がついている。言葉や慣習が違えど、どこの国も同じで、システムさえ知っていれば乗ることが出来る。会話の無い乗り物。それに慣れてしまっているんだな、と、ほっとした瞬間に思う。 都市をずっと撮ってきた。都市をずっと旅してきた。僕はほんとうは都市が好きじゃないんだ、ということを、旅を重ねる度に実感してきた。その一方で都市の便利さに慣れ、田舎の村に滞在すると不便を感じたりもする。それを不便だ、と思ってしまう自分がいる。そこに入り込んでいきたい、と感じるようになったのは、もうこの3年ほどのこと。 宿に帰り、銀行に行き直す。銀行ではここではちょっと書けないような出来事があった。おかげで再両替ができて、僕は助かった。都市に来ても、こういう時に、都市にいる人でも誠意を持って接すれば優しさは受け取れるし、それに優しさを持って返したいと感じられる。キエフ最後の夜にすごく暖かい笑顔を交わすことが出来た。 いつものお店で夕飯を済まし、部屋のある坂道のふもとの薬局でマスクを買い(5枚入りで80円だった)、部屋に戻り、読書をする。洗濯をする。紅茶を飲む、風呂に入る、筋トレをする、読書をする、日記を書く。 いつも通りのことでいつも通りに夜が更けていく中、ネットが直らなくなった。困った挙げ句、全て再起動して、今待っている。これがアップされていたら直った証拠。 明日からドイツです。ドイツも寒いんだろうな。

0 comments

水の滴る色(19)

2011年11月13日 今朝目が覚めたら、腹を下していた。今回の旅の中でいちばん酷い。最初、コレラとか赤痢だったらどうしよう、と焦ったけれど、症状的に、ガストロっぽい。ここ数日間の間に全く思い当たる節が無いあたりからも、潜伏期間とか考えても実際にはなにが原因かはわからないけれど、たぶん、ガストロ。要は食中り。 水分多めに摂って、胃腸薬飲んで、胃腸に負担のかかる食べ物は極力避けて、行動しました。 予定通り、ペチェールスカ大修道院に向かう。今日は日曜日。ミサだ。案の定、午前中とはいえ、独立広場のあたりは閑散としていたのに、そこから地下鉄で一駅南下しただけの(とはいっても、この地下鉄一区間はとても長い)、なんもない通りは人が多く往来していた。 地図の通り、アルセナリナ駅を出てすぐ左側に歩き出し、てくてく歩く。 今日は寒い。モスクワより寒いんじゃないか、と思うくらい寒かった。油断してふつうに来てしまったけれど、ジーンズの下にレギンスをはいてくればよかった、と後悔した。明日は、暑くてもはいてこよう。 駅から10分程度歩くと、大きな公園に出くわす。入り口に「1941-1945」と書かれているところからも、第二次世界大戦没者の慰霊碑だとわかる、大きな塔。炎は絶えず掲げられていて、子どもがおじいちゃんと一緒に参拝していた。こうやって人々の心の中の信仰は、帰依は、受け継がれていく。そんなことを思った。曇り空、冷気の雲の下。 その慰霊碑のあたりは丘になっていて、ドニエプル河を眼下に見下ろすことが出来る。その風景、広さ。この河がこの地に歴史を刻ませ、この街を作り上げた。多少の差はあれど、変わること無く流れる河面に、宮本常一氏の「自然は寂しい。しかし人の手が加わると暖かくなる。その暖かなものを求めて歩いてみよう」という言葉が浮かんだ。 この雄大な自然の中に人々が街を築き、歴史を刻み、記し、今、瞬間瞬間が過去になっていく時間の矢印の先に、立っている。立って、その降りしきる時間を浴び続けても変わること無い景色を、眺めている。 自然の風景は、景色はそれだけで自足しているから、人が介入していっても、それは不完全さを増させるだけだ、とずっと感じていて、今でもそれは感じているし、その目の前で自分の姿を写真に写すなどとても卑しい行為だと感じてしまうのだけれども、こういう、歴史とか人の手が加わった景色の中に人が映っているのは、なんだか暖かい気が、してくる。 自然を考える際に、人の手が全く加わっていない自然など、本当に限られた場所でしか観ることはできないのだけれども。 その公園を抜けるとペチェールスカ大修道院は見えて来る。 券売所で、入場料の25UAHを支払おうと200UAH札を出すと、お釣りが50UAH足りないという。足りなくて、券売所のおばちゃん、困っちゃう。困惑して、自分の財布を開けるけれども、入ってない。もーお手上げ!という顔をされ、ぼくはポケットに入っていた有り金全部出してみた。そこには10UAH札2枚と、1UAH札2枚。コインがまばら。それを見たおばちゃんは、「学生?学生でしょ?」と。僕がそうだ、と答えると、「学生は12UAHだよ」と安心し切った顔で言い、200札を返して、12UAHを受け取った。およそ130円。僕が学生証を出そうとしていると、「いい、いいよ。出さなくて良い。はい、チケットね」と言って笑顔で入り口を指し示してくれた。 キエフの人達は、寒さで顔は強張っているけれど、話した途端に頬がゆるむ。その笑顔に一気に和む。 この大修道院は1051年から歴史を刻んでいる。残念ながら、鐘楼は工事中で登れなかったけれど、ミサに立ち会うことが出来た。1つ目の主聖堂で祈りを捧げる人々や、懺悔をする人の姿を見、ここに信仰の姿が強く息づいていることに、なんとなく安心した。 それから美しい聖歌に誘われるように、トラペズナ教会に入ると、さっきよりも多くの人達が祈りを捧げ、しきりに十字を切っていた。僕は圧倒されるばかりで、歴史とはこのように刻まれて行くのだ、と感じた。 敷地にはこんなオブジェも。 やっぱりこのカラーたまごがウクライナではお土産になるのでしょか。 下の修道院はちょっと割愛して(街の撮影がしたかった)、街に戻ったはいいけれど、階段でこけるわ、朝の腹痛がまた押し寄せてくるわで、慌てて部屋に戻った。街の中心部から部屋が近くて良かった。 で、部屋に戻って一息ついたら、今度は立つのも辛い程の疼痛が腰を襲う。もう勘弁して…。 おかげでやまいちは、その後部屋から出られず、この時間になってようやく腰が落ち着き(お腹はとっくに落ち着いてしまった)、七時になるとさすがに億劫で、もうこのまま今日はゆっくり過ごそうと決めた。 明日はのんびりと歩き回り、やっぱり夕方前には帰って来ようと思う。夕方って言っても3時にはだいぶ暗くなるから、お昼過ぎ、だけれども。

0 comments

水の滴る色(18)

2011年11月12日 キエフ時間で日付が変わる頃、日本は朝の7時を迎える。それを30分くらい回ったあたりを目がけて、実家に電話を入れた。 今日、祖父が旅行に出かける。一泊二日という短いスケジュールでも、声が聞けるときに、声をかけられる時に、行ってらっしゃいを言いたくて電話をした。 父も、珍しく電話口で饒舌だった。 行ってらっしゃいを言って、眠る。 午前7時。 ブラインド越しに見える外は真っ暗で、まだ夜みたいだった。キエフ。 そしてもう一度目が覚めたら11時だった。どれだけ眠ってしまったんだろう、と思いながら眠たい頭を持ち上げる。 どうしても風邪が抜けず、それを心配した父が昨夜、というか今朝(ややこしいな)、「水分はちゃんと摂ってるのか」と訊いてきた。意外だった。まともな意見! 確かに水分は摂っているけれど、普段日本に居るときと同じくらいしか摂っていなくて、それでも2Lはいくのだけれど、湿潤な日本でそれだけ飲むのなら、乾き切ったこの気候下ではもっと飲んでも良いのかも知れない、と思った。 また痩せた、と心配されたが、写真写りのせいだと自分では信じている。 今日は喉がまだ痛いのと、雪がちらついていたこと、ということを考えても、外に出る気がなかった。 部屋は散らかっていて、僕は独り部屋になるとこうなる、ということがよくわかる。 昨日買ってきたフルーツジュース。 こっちでは100%無添加のジュースはとろっとしていて、全部「ネクター」って書いてある。Нектарね。ネクター。 ネクターっていうと、僕はピーチジュースしか思い浮かばないのだけれど、あの濃厚さで全ての果物が提供されているから、すごい。これをがぶ飲みしながら、ビタミン剤を飲んでいます。 ビタミン剤はすっぱいのだ。 今回は荷物紹介を少し。 以前、横国の広報さんからインタビューを受けた時に、どんなものを旅に携行するか、と訊かれて、いつも必ず持ち歩くものを答えたことがあるのだけれど、その時と少しだけラインナップが変わっている。 左上硬貨のすぐ隣にあるのが露出計やストロボ、それに関連して電池類、エネループの充電器。露出計の右にある白いコンセントが、プラグ変換のもの。これは2つ持ち歩いている。それから体温計やナイフ、レリーズ、爪切り、毛抜き、小さい鏡、メジャー、海外用携帯電話(これはもうほとんど出番が無くなった)、レンズのクリーナー。今回はMacを持っているから、なんとなく星形ドライバーも持ってきた。いらないのはわかっているのだけれども。あと、ソーイングセットと、精密ドライバー。延長コードにロープ。マスキングテープ。 このナイフはずっと持ち歩いている。こいつは優れもので、果物や野菜だけじゃなく、骨付肉なんかもすっきり切れる切れ味。で、このナイフを畳んだ状態で僕は瓶ビールの栓だって開けてしまう。 今までは小型のスピーカーを持ち歩いていたのだけれど、あまり音楽をかけなくても、夜、過ごせるようになったので、今回から持って来ないことにした。 このMacBookはもう5年も使っているんだ、と思うとびっくりするけれど、実は海外取材に持ってくるのは初。iPodはいつもの通り。今回はtouchもお目見えした。 荷物持って来過ぎだが、これだけだと大きめのリュックサックに全部入る。この他にカメラ機材とフィルムたち、着替え、歯ブラシ、今回はコンタクトレンズで来てるからそれ関連のもの、また石鹸なんかを持ち歩いている。 本は地球の歩き方二冊に、文庫二冊。雑誌も持って来たけど、これはロンドンで置いて来ようかな。 大きなスケッチブックは今回も持って来ている。 バックパックを背負うのは腰に痛いので、面倒だけれど、スーツケースで来ている。このスーツケース、父のお下がりだが、僕が使い込んだおかげでぼろぼろだ。もうまっすぐ自立しない。いろんなシールがはがれなくて、すげー汚い。でもその分愛着があって、今回の旅で最後かな、と思ってたけれど、壊れるまでは使ってあげようかな、とも思っている。 宿のアパートから徒歩10分以内のところにある、キエフで現存する最古の教会、聖ソフィア聖堂へ向かった。 地球の歩き方の情報は少し古いみたいで、料金も違ったし(地球の歩き方には20UAHとあったけれど、今は43UAH。学生でも8UAHとあるけれどこれが確か20UAH)、聖堂内は定時で区切られているわけでもなく、個人で普通にするする観ることが出来た。 聖堂の中は暗く、間接照明で明かりを灯し、観て欲しいところにだけ光がまわるようになっていた。その明かりの中で観る聖堂の祭壇は荘厳で美しく、思わず息を呑んだ。金色の祭壇、その祭壇を作った人の思い、くぐり抜けてきた時間、それが歴史となって歪んでいるからこそ、ここにまだ立っている、という力強さを感じさせてくれる。 変わっていくもの、移ろっていくものには、当然、その当時、確かな価値があるべきだけれど、変わらないもの、いつまでも立ち続けるその姿にはその価値では推し量れないほどの素晴しさが詰まっているのだ、と感じる。 トルコのイスタンブルにあるアヤソフィアと同じ名前で、1037年に建てられたキエフの聖ソフィア大聖堂の方が、新しく、小規模であるけれども、僕はこの佇まいに、「こっちの方が好きだな」と感じた。 もちろんアヤソフィアはスケールのでかさと、360年から刻む歴史の中、500年代半ば頃の姿を今に残しているから、その時間の厚みや、越えて来た歴史の数々も多く、また装飾も同じギリシャ正教ながら、純粋に近い、ビザンツのギリシャ正教を受け継いでいるか、人の手により、歴史の中により、形を変えて来たギリシャ正教を受け継いでいるか、で様式も趣もここまで変わるのか、と感動した。 中は撮影禁止だったけれども、その美しさは、凝縮され、よく目に焼き付けてきた。ここはまた来たい。 2階の展示室には巨大な現代作家によるモザイク画があった。 これは撮影許可が出たので、一枚。相当でかい。このドット1つ1つがたまごで出来ていて、たまごをカラーリングすることでドットを作り、それを敷き詰め1つの画を作り出していた。 ドットから絵を描く、という手法は今のコンピューターにも活きていて、長い時代の中で人が絵を描くという根本的なところは通じている、という感じを受けた。 館員のおばちゃん4人に声をかけたけれど、当たり前と言えば当たり前だが、全員に撮影はお断りされた。 夕飯は昨日と同じお店。今回はお肉!と思って買ったはいいけれど、やっぱり無理。すぐお腹いっぱいになってしまって(スープとサラダだけで腹八分目だった)、持ち帰りたかったけれど、「ダメ」と言われ、諦めて少し残して返って来た。明日は完食できる程度の量に留めよう。 今日は長いブログでした。これからスケッチブックに向かって色々書き連ねます。 明日は晴れるといいな。おやすみなさい。

0 comments

水の滴る色(17)

2011年11月11日 「今日はポッキー&プリッツの日」と朝言われて、の1日。 昨夜キエフに着いて、夜の時間、少し街を歩いた。 地下鉄の駅から宿までの間で大きな交通事故を見かけた。宿の人と一緒だったから不安は無かったけれど、交通事故はやっぱり危ないな、と思った。「行ってらっしゃい」「行ってきます」は、必ず帰るよ、という一言。必ず帰ってきてね、の一言。それが、「気をつけてね」になるんだと感じている。 宿に着いてから、荷物を置いて、彼らにブリーフィングしてもらって、色々情報を手に入れて、支払いを済ませた後、近くのフードコートで夕飯を摂った。 キオスクで適当に水やビールを買い込んで、眠った。 今朝はそう過ごした後の朝で、朝陽がこんなに早く部屋を満たすんだ、と嬉しくなった。モスクワでは八時になっても真っ暗だったのに。 昼、丘に登る。 街に着いた最初の朝は丘に登ることに決めている。丘からの眺めは街ではなく、旧市街を臨み、川や工場が眺められる。 その丘は教会があって、公園になっていて、人々が憩いの時間を過ごしていた。 鳩にえさをやる親子や、散歩する新郎新婦、タバコを吸いながら楽しそうに話す男の子たち、カップル、写真を撮る観光客、ヨガをするおばちゃんたち。 でも、なんで海外の公園のオブジェはこうなっちゃうんだろう、と思った。海外の、というか、モスクワとかキエフとか、そういうあたり。 キエフは、やっぱり寒くて、空は曇っているけれど、通りを歩く人達の表情はどことなく軽やかで、明るい顔がそこかしこに見られた。たぶん、気温のせいだけだ、と最初は思っていたのだけれど、街で人に話しかけた時の応対が優しい。 笑顔、英語が通じる、この2点だけでそれを判断しちゃいけないのだけれども。でも、この短い滞在で中に分け入ってくのが難しいかもしれない、と思っていたのが氷解するような感じだった。 夕方まで眠ってしまって、18時ごろに部屋を出た。外はもう暗く、でもすごい人通りの多さで、あぁ、今夜は金曜日だ、と思った。明日の夜も賑やかなんだろう。夕飯くらいは外を歩き回ってみようかな。 昼間に見つけられなかったスーパーを、探しまわっていたのだけれど、何人かの人に聞いたら、簡単にわかった。みんな「すぐそこだよ」と言うのだけれど、その「すぐそこ」がわからなかったのだが、こういうことか、と思った。 プラザ、と言っていたのは、このお店で、その地下にスーパーが入っていた。スーパーといっても、いくつかの商店が寄せ合って入っている、という感じだったが、でも、スーパー。しかも!英語通じた…! なんだか、言葉が通じるって嬉しいな。 あとコインが、1フリヴニャ、1コピーイカ、2コピーイカでコンプリートできる。モスクワではどこにいっても言葉が通じず、コンプリートなんて夢のまた夢、だったけれど、ここならいける、と信じてる。 夕飯は地球の歩き方にあった、ドヴァ・グーシャにて。 ボルシチとサラダ、ピラフとロールキャベツ的なもの。コレだけ食べて400円!ジュースもついてるよ。毎晩ここに通おうかなと思うくらい、美味しくて、安くて、賑わっていた。そりゃそうだよね、庶民的なお店はこういうもの。こっそり写真を撮りたいと思っている。

0 comments

水の滴る色(16)

2011年11月10日 曇り。朝までスーツケースと格闘して、七時半前に宿を出る。七時半頃、まだモスクワは寝ている人が多い。 なんてったって、暗い。八時半頃の列車に乗る為に、モスクワのキエフスカヤ駅に行ったけれど、真っ暗で、夜みたいだった。それでも労働者たちは出勤して行くわけで。 僕は迂闊だった。一度もキエフスカヤ駅周辺に来なかったのがよくなかった。撮影したい街の風景は、暗かったからだったのか、ここにあった、と感じたし、でもこんな暗くちゃ撮れない、とも思って、少しへこんだ。朝からなんだかどうしようもない1日になりそうだな、と思って駅に入る。 でも、そこは長距離列車の入り口じゃなくて、モスクワの国内線空港へ行く列車の乗り口で、一度外に出て、今度は券売所へ。券売所で最初に行った窓口で、「隣の隣の人に聞け」と言われ、その人のところに行ったらクローズになっていて、その隣の人に聞いたら「ここじゃねぇよ!」の一言で一蹴。目の前が真っ白になる、とはこのこと。列車まであと30分。一部始終を見ていた同い年くらいの男の人が、「これはあっちの券売所で聞いてご覧」と、ジェスチャーで教えてくれた。こういう優しさにぐっとくる。そこには長蛇の列。ヤバいぞ。結果、8:36の列車に乗るために、eチケットがきっぷに変わったのは8:17頃だった。更には、日本の駅みたく、「はい、券売窓口のすぐ横が改札です」みたいにはなってなくて、建物が別。一度出て、ぐるっと回った裏手が入り口だった。そんなのわかるはずがない。 スーツケースをごろごろ持ち歩き、列車に乗ったのは8:25。正直怖かった。久しぶりにドキドキした気がした。 冷静でいられなくなるし、ヘマすると焦るし。やっぱり僕は早め早めに動かないと無理みたい。 列車はいつぞやのカザフで乗ったものと全く同じ形。懐かしさに胸が詰まる。しかし何故か今回は足が伸ばせる。前回と身長変わっていないはずなのに、何故。 列車に揺られること14時間、日本の列車と違って、街と街との間は大平原。タイガの姿はまさしくこれなのだ、と感じるような森林を何度も抜けた。僕は北海道に行った事がないのだけれど、北海道はこんな感じなのだろうか。 街を越えて、森林に入ると一気にケータイの電波は通じなくなり、列車は静かになる。前後左右上下にがたごとがったごっと揺れる列車は少し酔うかと思った。 列車の中ではケータイの電波と格闘してみたり、スケッチブックに向かったり、本を読んだり、とくつろいで過ごした。相部屋だった夫婦はよく食べるカップルで、僕は小さなパン2個とTwixだけだったから、この平気で4〜5倍は食べる、特に奥さんに僕はびっくりだった。 途中、税関申告では荷物を全て暴かれ、車掌には「じゃぽん」と呼ばれ続け、到着時刻に着いてからは、キエフの宿の人がわからない。もうすごい、人。 キエフの宿の人には無事に声をかけられ、彼らのやさしっくってクールな対応が好きになった。明日からキエフ撮影。しかりとがんばろう。

0 comments

水の滴る色(15)

2011年11月9日 今日は朝、大寝坊をしてへこんで、オレンジジュースを呑み干し、朝ご飯を作って食べ、思い直して手紙を書いて、部屋を出た。 中央郵便局から投函。25pの安さにびっくりして、ちょっと不安だけれど、ちゃんと届くといいな。 だいぶヒゲも伸びました。 今日も雪がちらつき、でも積もっていなくて、これが高校で地理の先生が、「モスクワはまだ湿気があるから寒くないんだよ」ということなのか、と思った。路面は濡れていて、雨が降っているみたいだった。 でも、僕には十分乾き切っていて、寒くて、喉痛がまだ治らない。 今日はマフラーに顔半分を埋めて歩き回った。 でも、歩けど歩けど、人がいない。 雪の平日に外を歩いている人なんているわけない。 諦めてスタバに入る。そこで素敵な出会いが。 僕のレジを打ったのはヴィンセントという名の男の人だった。すらっとしていて、超かっこよかった。ハリウッドの俳優にこの顔いた、と思った。思い出せない。 で、キャラメルマキアートを頼んだら、「もうないんだよ、ごめん。あとこっちのマキアートも無い。キャラメルがないんだ。でもヴァニラならできる」と英語で返ってきてびっくり。 名前を聞かれたから「ナオ」と答えると、カップに「Nay」と書かれていた。それじゃ「ナウ」だよ、と思ったのだけれど、僕の名前はNaoにしても外国人には聴き取りにくい。 Nowに慣れてるから余計だ。 で、思わず、「写真撮らせて!」と言ったら、快諾してくれて、昨日の落ち込みが嘘みたいに晴れやかな気分になった。モスクワ、最初で最後のポートレートになった。 昨日、断られまくって…。と話すと、「それはロシアン・シンドロームだね。みんな寒くて塞いじゃってるんだよ」と笑ってくれた。「たとえば可愛い女の子とか、写真に撮りたい、って思うのは、普通だと思うんだけど」と彼は笑って陽気に話した。 彼は実は、僕の撮影を快諾したがために、休憩時間をわざわざ早めてもらって、撮影に臨んでくれたのだ。その心意気に多謝、もう感激。 部屋について、母からのメールでツキトジの写真が送られてきた。 日本も冬になる。冬の日射しでも、光あれ、いっぱい浴びろ、ぐんぐん育て。 明日朝早い電車でキエフへ向かう。 キエフはどんな色だろう。

0 comments

水の滴る色(14)

2011年11月8日 昨日はなんだかあっという間に1日が過ぎてしまって、ブログを書く暇さえ無かった。 8日、朝起きたら10時を回っていて、寝すぎたな、でもまだ眠たいな、と思いながら、その前の晩から決めていた予定を消化するべく、準備して出かけた。 日本ではあまり行かなくなったマクドナルド。久しぶりに行った。朝ご飯、ビックマックを食べる。 日本で食べてる時はなんともない、と思うのだけれど、さすがにこっちのポテトとコーラは大きくて、最後の方は苦しかった。 胃袋、小さくなり始めています。冬だな、と思う。 最近は、少しの塩気でも「しょっぱい!」と感じるようになって、みんながケチャップとか何かソース的なものをつけて食べてるポテトを、僕はしょっぱいじゃん、と思いながら、うす塩味で食べてしまった。 それからトレチャコフ美術館に行く。 泊まってから気付いたのだけれど、僕が滞在しているホステルは「トレチャコフ駅」まで徒歩2分程度。つまり、美術館が超近いのだ。モスクワで要チェック、的なことが地球の歩き方に書いてあったので、行ってみた。 が、 色々思う所はあるのだけれど、僕は全然楽しめなかったのだ。 入場券は学割が使える。普通なら450pのところ、300pで楽しめる。それはすごく素晴しくて、クロークに上着を、ラゲッジルームに荷物を預ける所まではスムーズだった。 宮殿みたいな建築、カッサやクロークのロビー、展示室への階段、全てが素晴しくて、僕は感動してわくわくしていた。 しかし、展示室に入ってみると、急にギャラリーが簡素になり、更には蛍光灯が反射してどの角度から見ても綺麗に見えない絵がある…。あれ、ここ、モスクワ最大の美術館なんじゃないの?という思いが邪魔をして、集中できない。 イコンの圧倒的な量と、所狭しとかけられた絵画の数々はすごかった。コレクションはすごい。でも、本当に「所狭し」で、もう少し、レイアウトを考えて欲しい、と思った。 作品の質も大事だけど、レイアウトも大事。出し惜しみしないところと、他の所が工事中なところを考慮すれば我慢はできるけれど、あまりにも見にくくて辛かった。2時間かけて観切ったが、ぐったり疲れて、あの面積に対する量じゃない、と思いながら、大量のメモを保存した。 それからマトリョーショカ博物館へ足を運ぶ。 この間のリベンジだ。写真を撮り忘れてしまったのだけれど、マトリョーショカ博物館はとてもわかりにくいところにある。しかも小規模!なんていたって、とある小道から中庭に入って、そこにあるとあるカフェの建物の通用口から進んだ2階にあるのだから。 これ、わかりにくいけれど、「ここだよ、こっちだよ」サインがなんとも言えずかわいらしかった。この写真を撮り忘れたのだけがモスクワの後悔だ。 なんと、アスファルトの地面に、マトリョーショカのスタンプが「ムジェー」という文字とともに押されていて、それを辿って行くと入り口に行けるのだ。 モスクワは、看板は少ないけれど、そういう目印が多い。まさか地面にそんなサインがあるなんて、モスクワ到着すぐにはわからなかったが、今ではなんでこんなことになっているのかなんとなくわかる。 寒いと、ポケットに手を入れ、マフラーに顔を埋め、背を丸めて歩く。風が冷たいと、顔も上げられない。自然に顔が下を向くのだ。 モスクワはなんとなく暗い雰囲気、という印象を受けたけれど、たぶん、それはみんながそんな風にして歩いているからだと思う。子どもだけが、元気にはしゃぎまわっている。 まぁ、雪降って積もったら見えねぇよって思うけど、除雪すれば…。どうなんだろうか。真冬ではないので、そこは推測の域を出ない。 マトリョーショカ博物館はホントに小さい。なんていたって、普通の建物の3部屋分しか無い。だいたい8~10畳×3部屋、という感じか。そこに陳列されたマトリョーショカはすごく美しくて、中にはこけしもあった。本物のこけし。日本人が日本で作ったものが展示されている。マトリョーショカは一節によると、日本のこけしがロシアに伝わって、今の姿になっていった、という。こけし、すごい。海と大陸を渡ったんだね。 で、そのマトリョーショカ博物館には、伝統的なものから、現代作家の作品まで幅広く取り扱っていて、その場で買うことが出来る。おみやげにいくつか買い込んで、温かい気持ちで後にした。 ちなみにここではマトリョーショカ制作体験もできる。僕が行った時は十数人の子どもたちがわいわい賑やかに作っていた。 それからモスクワのビジネスセンターのあるキエフ駅北へ向かう。 向かうが…、建設中の広い面積と、高いビル、吹き付ける吹雪。人はまばらで、何人かに声をかけるも、「はずかしいよ、写真なんて撮らないでよ」の連続。へこんで、帰ってきた。からだもこころも寒い気分だった。 部屋に帰って、遅いお昼を食べ、それから早いシャワーを浴び、軽く眠って、夜は遅くまでホームページ更新作業をしていた。 ホームページができあがった。 よろしくです。 http://yamaichinaosuke.info/

0 comments

水の滴る色(13)

2011年11月7日(2) 今日で休暇はひとまずおしまいで、明日からまたばりばり動く。 そのつもりで本当に荷物整理や洗濯、料理なんかにたっぷり時間をかけた1日になった。 昨日からなんだかずっと「ソース味」を食べたくて。 海外で外国人に「ソース」の説明をしようにも、どうにも言葉が至らなくて困る。 「ソース」は「ソース」なのだ。 あの茶色い、たこ焼きとかお好み焼きとかとんかつにかける、あの「ソース」。 でも、いくら日本食ブームの世界でも、醤油やわさびは店頭に並んでいても、ソースまでは期待できない。ジャスコとか行けばあるよ、そりゃ。でも、普通の庶民が利用するスーパーには少ない。 そう思うと、世界中のあらゆる調味料を陳列している地元のしがないスーパーも、すごいことなんだな、と思った。ナンプラーなんか、誰が買うよ?日本の食卓で。僕は買ってたけど、4年一人暮らしして2本程度しか買わなかった。 日本の色の選択肢はものすごく広い。 で、ソース。 モスクワの最寄りのスーパーには残念ながらそんなものはなかった。 日本の調味料はわさびと醤油2種類。 前述の通り、僕はキッコーマンじゃなくて、ロシアに流通しているこの醤油を買った。その名も「ソイ・ソイ 」 しつこい味で、しょっぱくて、でもどこか甘くて、ケミカルな感じ。でも醤油の味だ。 醤油味の何か。 でもそれでも久しぶりの醤油味はうまかったなぁ。 で、今日は昼にソースを作ってみた。 大した調味料は揃っていないし、だからといってこの一回の為に買うつもりも無く、前掲の通り、野菜の出汁に醤油と砂糖とケチャップを入れて煮込んだだけ。でも案外、ソース味になった。これでいける、と踏んだので、夕飯はもんじゃ焼きだ。 冒頭の写真はもんじゃの姿。 キャベツが無かったから、野菜の出汁をとった出涸らしの、くたくたになった人参玉葱セロリを、豚肉が無かったからウィンナーを、そのソースに混ぜ、というか最初から入っていたものを混ぜ、そこに小麦粉を入れ、焼く。 その匂い、焦げた色、まさしくもんじゃ焼き…!!! いや、うまい。うまかった。完成度は低いが、満足だ。 その見た目の悪さに、キッチンにいた西洋人は部屋に引き上げてしまった。ごめんなさい。 皿を洗いながらふと思ったのだけれど、そういえば、西洋の料理は本当に「食材で飾る」というのが似合うような、成形された、デザインされた盛付けを好む。食材もそう。クタクタににこんでその残骸がある、というようにはしなくて、裏ごししたり、なんだり、と、とにかく見た目を精錬する。 日本の料理は「食材で飾る」というよりも、「器で飾る」イメージが強い。 和膳は、少なくとも配膳でサービスしたものは、全てそうだった。 日本料理のお好み焼きやもんじゃ焼きが世界中にポピュラーになんないのはそのせいかもしんないな、と思った。お好み焼きやたこ焼きはともかく(あれは形を整えれば綺麗だし、そもそも「形がある」)、もんじゃ焼きは形が無い。しかも焼きながら食べる。 焦がしたり、生だったり、を楽しむ食べ物だ。こんなの理解して、と強要しちゃいけない。美味いんだけどね。興味を持ったら勧めるけれど、「ワタシ、無理ネ」って言われたらそれまで。

0 comments

水の滴る色(12)

2011年11月5日 昨夜、体が重い、と思って、たぶんかぜをひいたな、と思ったんだけど、案の定、喉をやられた。で、今日は一日中堕落しよう、と心に決めて、そのつもりでいたのだけれど、晴れ…だと? 何故晴れる。 思わず天気予報を見たら、今日「だけ」晴れで、明日からは曇りや雪のマーク。もう勘弁して。 で、お昼ご飯を作って出かけようとしたら、パスタが無い。ネーム書いておかなかった自分が悪い。持ってかれた……。仕方なく、少しだけ余っていた、シェア用の食料から、スパゲッティを使い、お昼を済ませる。ナポリタン的な。 で、出かける。 出かけるに際して、「マフラーぐるぐるまきにしなさい。出かけるならマスクとか買いなよ」と言われ、その通りに。 今日程「АПТИКА」という表示を目にしていた日は無い。 出かける時、「薬局ってなんだっけ。pだった気がする。ぺー?ぱー?」とかずっと思っていたけど、アプティカを見てから、ロシア語ではこうなのか、と思い、「あぁ、ファーマシーだ」と気付き、マスクを買って、すぐにつけて歩き回った。 Nov. 5. 2011 Last night I felt sick, and thought that I caught a cold. As I expected, I have a sore throat. That’s why I decide I won’t do anything today, though, why is it …sunny??? So I checked the weather forecast, it said that […]

0 comments

水の滴る色 (11)

2011年11月4日 今日やったことといえば、寝坊をしたことと、赤の広場まで歩いたこと、そこからマトリョーショカ博物館まで行ったけど祝日で休館でインターホン越しに怒られたこと、メールをしたこと、カフェでコーヒーを飲んだこと、偏頭痛と目眩を覚えてなんとか帰ってきたこと、美術館に行くのを諦めたことくらいだ。 行きと帰りは、モスクワ川を越える橋を渡る。 そんな1日だったのに、惰性なのか、慣性なのか、それでもシャッターを切っている自分が気持ち悪かった。 モスクワはこの季節、大抵晴れることはないという。 せめて明日は気分くらい晴れていたい。

0 comments

水の滴る色 (10)

2011年11月3日 「日本は今日はおやすみだったんだよ」と、月兎耳の件で電話をした母が言うまで、つまりついさっき日本の日付が変わるまで、今日が祝日だったことをすっかり忘れていた。 今日は早朝に一度起きた後、もう一眠りして、それから動き出した。 まずはメトロの駅に行ってATMでお金を引き出し、昨日未納だった残りの4日分の宿泊費を納め、レシートとして発行される重要書類を渡された。コレが無いと、ポリスに呼び止められた時面倒なことになるらしい。更に、宿のおばちゃんが、「ポリスが変な要求してきても、これとパスポートとビザを提示して、それ以外は全て断ってね」と忠告してくれた。こんな忠告してくれる宿は初めてだったけれど、それだけ横行してるってことか、とも思った。 モスクワの制度はどんどん変わっているみたい。 まず、夏時間がなくなっていたことを昨日知った。今年の3月からだそうだ。 おかげでUTC+4になって、いつでも日本との時差が5時間になった、とのこと。僕のケータイも地球の歩き方も、これには対応していなかった。新事実。 今日はその支払いが終わってから、おばちゃんに教えてもらった近所のカフェに行った。昨夜から何も食べていなかった飢餓状態。そのためかビュッフェ形式のそのカフェは、学食みたいに自分でトレイに取った分だけ支払う仕組で、メインとサブ、サラダ、とがっつり取ってしまった。総じて1500円ちょっと。支払い時後悔したけれど、その後もっと後悔することに。 まず、自分の胃袋が小さくなっていた。出国時よりだいぶ小さくなっている。たった一週間なのに、同じ量が入らない入らない。更にこっちの料理は全てオイリー。僕の許容量を、半分平らげたあたりで軽くオーバーしてくれて、気持ち悪くなった。それでもカロリーが欲しかったのと、高い金はたいた意地とでなんとか完食。しんどかった。 そのカフェからメトロ駅までの間のキオスクでビターレモンのトニックを買う。最近トニックウォーターばっかり飲んでる。でも、高かった。キオスクで50Rbで、こんな高いの!?ぼった?とか思ったけれど、どこもかしこもそうだった。スーパーは大抵安いはずだけれど、そこでも35Rbはした。冷えてたからよしとする。 それからノヴォクズネツカヤ駅からメトロに乗り、 途中乗り換えが2回あるヴァラビヨーヴィ・ゴールィ駅そばの雀が丘を目指す…。ものの、5号線に乗って、2回目の乗換駅に降りようとしたら、1つ先のキエフ駅に着いてしまった。何故?と思ってもう一度反対方向に乗ると、また1つ先についてしまう。どうやら地下鉄の駅も1つ閉鎖状態らしい。 仕方なく9号線にのり、それから1号線に乗り換え、なんとか目的地へ向かうという、すごい遠回りをした。倍は時間がかかった。 でも、それだけ頑張ったかいはあった。 僕は初めての街に着いたら、丘に登るか、その街で一番高いビルや展望台なんかに登ることにしている。高いところは嫌いだけれど、街を俯瞰するといろんなことに気付けるからだ。 そして地下鉄は車窓が見えないから嫌いなのだけれど、タクシーやバス、列車の車窓はじっと見ることにしている。 そのルールに従って、今回は雀が丘に来た。 そしてその森の美しさに息をのんだ。あぁ、日光にまた行きたいなぁ、と本気で思った。 僕はそれでも日光の方が断然好きだ。 木の名前がこんな風に掲示されているのも興味深かった。でもショースナとかリストヴェンニッツァがどんな木なのか、どういう種類なのか、名前を見てもわからないけれど、こんな木なのか、とだけは想像できるから、楽しい。 モスクワ川も、森の湖畔も、水は凍ってなくて、まだ鴨が泳いでいた。 なんという穏やかな時間!まだ暖かいんだな。ロシアの気温をなめていた。もっともっと寒いと思っていた。この暖かさなら頑張れる。そして持ってきた防寒着がとても邪魔だ。 帰宿する前に、ノヴォクズネツカヤ駅そばのスーパーで人参セロリ玉葱を大量に買い込み、夕飯はスープパスタ。写真はツイッタにアップしたので、省略。 今日はこのまま、ここ、キッチンでしばらく作業して、お風呂入って洗濯して寝ます。 明日は赤の広場やマトリョーショカ博物館などに行って、美術館なんかにも行って、ゆったりします。明後日から本格的に撮るぞー。とはいっても、今日もかなり撮った。がんばる。

0 comments

水の滴る色 (9)

2011年11月2日 やっぱり移動日は一番気が張りつめていて、どっと夜に疲れが来る。しかも初めての国、初めての街、治安悪しと噂されるモスクワの夜の街頭で道に迷うとかやっちまうと余計に、だ。 正味1時間は道に迷ってました。ほんと数メートルの違いだけで見つけられず、電話して迎えにきてもらうという惨憺たる…。それでも優しく迎え入れてくれて、更にATMでおろす金額が少なかった為に支払いが未納部分あったりしてるのに、「とりあえず今日は遅いし、長旅大変だったでしょ。今日はゆっくり休んで、私たちは逃げないから、明日ゆっくりもってくればいいじゃない」と。優し過ぎる。初日からモスクワの人達の優しさに心揺さぶられる思いだ。 宿は快適そのもの。昨日までの宿が松屋レベルなら、今日からはデニーズくらいな跳ね上がり方だ。値段は今日からのとこのが安い。ビザ、自分で手配して良かった。こんなところに泊まれるならまたモスクワ来たい。 バクーからの1日をざっと概観。 今日は朝7時に、同室のトルコ人(彼は昨晩、「俺は軍隊に行って、こんな早い時間にいつも眠らされてたよ。日本人は徴兵がなくてマジでラッキーだと思う」と22時ごろに語っていたのだけれど)のけたたましい鼾で目が覚めて(実はもっと前に目は覚めていたけれど、眠ろうと努めたのだ)、8時にベッドを抜け出し、朝食を摂りながらスカイプをした。もう僕が起きてくると、「この日本人は必ずスカイプをしている」と宿の人に思われているらしく、みんなしきりに画面を覗いて、「こいつは俺の兄弟さ。お前もバクーに来いよ」と画面の向こうに話しかける。それを見てはるさんがケラケラ笑うのが、いいな、と思った。 バクー最終日。午前中はそんな風にゆったりと過ごし、腰痛の気配が恐ろしかったので、というか昨夜かなり疼痛が走ったので、タクシーで空港に向かった。値段は10倍だけど、それでも2000円だものね。それでもいいやと思った。 タクシーの車窓から見えるバクー郊外の風景。 これが風土というものなんだろう、と痛感する風景。どこまでも乾燥した土壌が続き、それはオイルで焼かれてしまったからなのか、この土地の気候のせいなのか、まるで砂漠だ。点々と生える緑は全て人の手によるもので、繁茂する緑を美しい自然だと擦り込まれている日本人には、荒涼とした風景にしか見えない。でも、これが暖かい、なんともいえない穏やかな風景に思えて、僕はずっとガラス窓に額を押し付けて眺めていた。 空港に着くのは早すぎた。でもおかげでのんびりと時間を過ごせた。飛行機ではとなりに座ったロシア人の老夫婦と少し会話をして、でもおっちゃんが途中で飛行機酔いしたみたいで、吐いていたけれど、その後の機内食は 完食していて、もしかすると酔ったんじゃなくて、なにかよくないものを体に入れたのかな、とも思った。ドリンクサービスの直後だった。 空港からはアエロエクスプレスで市内へ一直線。 モスクワ=ベラルーシ駅からメトロで宿の最寄り駅まで行って、そこからは、冒頭に書いたような目に遭って、 今に至る。ざっくり書いたモスクワ0日目。明日明後日はのんびり高台に登ったり、観光したりして、街の雰囲気を掴みます。 PS:この宿は24時間WiFi飛んでて、寒くないし、今キッチンでこれを書いたりしていて、快適です。

0 comments

水の滴る色 (8)

2011年11月1日 「カスピ海は晴れ渡り、遠い水平線が見える。」 今日から霜月。日本では霜はまだ降りませんか?アゼルバイジャンは朝晩はぐっと冷え込みますが、この時期でも昼間になると晴れていれば日射しが暑く、長袖では汗ばむくらいです。 朝ご飯をいつものメニューで食べ終わらせて、少しだらっとして、日が昇るのを待ってから、昨日、「歩く」と宣言した通り、今日は歩き倒した。人は時速4kmで歩くと一般的に言われるけれど、僕はどうだろう。前に出雲で歩いたときは約9kmを1時間半で歩き切ったことがある。今日はそんなハイペースではなかったから、多分時速5km程度だろう。それで計算すると20kmくらいは歩いたことになる。どこまで歩いたかというと… こんな感じ。これは朝、あべちゃんからFBで、「Heydar Aliev Cultural Center」のことを聞いたからだ。ここまで歩こう、と決め、11時に出発。 宿を出たすぐ近くの大通りは工事中。バクーはどこもかしこも工事中。その工事現場のみんなは陽気で、僕が手を振ると、集まって記念撮影。フィルムで撮ると、すぐに見れないことをみんな残念がるから、最近はフィルムで撮ってから、「わかった、こっちでもう一枚撮ろう」と言ってデジカメでも撮ってあげる。そうすると、液晶を見てすごく嬉しそうな顔をする。こっちに来て何人と握手したのかわからない。日本人である、というだけで恵まれるこの境遇には感謝したいと思う。先人たちが、どんな思いで日本をこんな風にしてくれたんだろう、と感慨深い。だって日本は江戸時代に門戸を閉ざし、世界に知られないような辺境であったのに。その幕末に坂本龍馬の活躍から始まる開国によって、世界と交流を始め、その時、ほんの小さな小国に過ぎなかったのに。第二次世界大戦で敗戦を喫し、世界的な地位を完全に失って、なんとか植民地にならずに独立させてもらっただけの弱小国家であったのに。それでも、立ち上がり、歴史をこんな風に回してきた先人たちが、ものすごく輝かしい存在なのだ、と感じるのはこの瞬間だと思う。今、日本がどんな状況であれ、それは事実。もちろん欠点も短所もある。僕は、歴史と現在を見比べたり、参照したり、そういう理解の先に、この現状を改善していく道筋を見いだせるんじゃないか、と、そんな風にいつも思う。そういう意味では、海外の、日本人の大半が想像もつかないような所に出かけてくるのは、とても有意義だと感じている。 海岸沿いの公園にたどり着くと、パペットマペットのフェスが行われていて、それにしちゃでかいだろ、と思いながらも、カメラを向ける。こんなに晴れ渡っているのは嬉しい。晴れていると気分までわくわくする。カスピ海は晴れ渡り、遠い水平線が見える。その先が霞んでいるのか、地球の傾斜なのか、その水平線でぷつん、と視界は収斂する。その射程。 街に戻り、郵便局や銀行に立ち寄りながら、デュネルを買い、スーパーでダイエットコークを買い、公園で食べる。みんなの中にとけ込むみたいに、ベンチに座って、ぼうっとする時間もいいもんだなと思う。今日は終始穏やかだ。 そこから駅前の28May通りを東に抜け、グングン進むと空港へ抜ける道、Heydar Aliev通りに出られる。その通りは高速道路ではないのだけれど、片側5〜6車線あって、車がびゅんびゅん走っていく。その脇の歩道ではチャイを飲むおっさんや、下校途中の小学生なんかがいて、ここは穏やかな生活圏なのだ、と感じる。こういう「少し郊外」という範囲がとても好きだ。 スランプ、と感じていたのが嘘みたいにぱしゃぱしゃ撮れる。最初からこのエリアまで歩けば良かったんだ…と思ったけれど、このエリアに来てしまうと、現在のテーマではなく前回のコンセプトに近づいてしまうから、それはそれでいいのか、とも思ったり。この旅は思考も行ったり来たりすることがすごく多い。 最初この道は南北に伸びていて、僕は北に向かって歩いていたのだけれど、それが大きく東にカーブする辺りで、視界が一気に開けて、カルチャーセンターが顔を覗かせる。その大きさ!手前の赤いレンガの建設中のビルはだいたい1.5kmくらい手前にあるのだけれど、それでも同じような所に立っているように見える。それでこの道はこのあたりから高速道路になっているのだけれど、他に道がないのか、歩道はちゃんと続いていて、それを道なりに歩き、更に歩道橋をわたり、坂を上ると、そのカルチャーセンターに挨拶が出来る距離になる。まだ建設中だけれども、いかに力を入れているのかがわかる。クレーンの投入数も、人員投入数も、他の建設物と比べると比じゃない。国家事業とはこういうものか、と思った。その坂を上り切った辺りからは、バクーの郊外を見渡せて、その晴れやかな空と、霞んでいるビルのコントラストが美しかった。 帰り道、懐かしい花の葉、種を見かけたのだけれど、それが思い出せなくて、気持ち悪くて、帰ってきてからスカイプではるさんに訊いたのだけれども、ふたりともわからなくて、ググって、最終的にはわかって、その後気付いたら誕生花の話になったりしたけれど、思い出せて良かった。オシロイバナ。僕の中ではホウセンカとセットになって記憶の引出しに入っています。でも、僕はホウセンカよりオシロイバナの方が好きで、その慎ましい感じがいいな、と子供心に思っていました。 夕飯はやっぱりデュネル。こっちはお昼ご飯に食べた所と違って、初日の夕飯に食べたケバブのお店。実は一昨日も行っていて、でももう売り切れ、って断られて諦めたのだけれど、今日リベンジで行ったら、店の人はもう僕のことを覚えていて、ウィンクされた。そういえばアゼルバイジャンのおっさんはみんなウィンクをよくする。それがお茶目で、写真を撮ったら、握手するためにぽっこり膨らんだお腹の辺りで肉の脂で濡れていた手を拭ってくれて、握手した。すごく大きくてごつごつしたその手は、1m近いナイフを巧みに操り、羊のお肉を削ぎ、デュネルを包む。白いカップはアイラン。トルコにもあるし、ブルガリアでも飲んだお気に入りのしょっぱい飲むヨーグルト。あとはコーヒーと炭酸水。今日の食事、以上。 明日、バクーを発って、モスクワへ移ります。寒いんだろうな。

0 comments

水の滴る色 (7)

2011年10月30日 明け方に起きて、メールを打つ。それからもう一度眠って、朝の八時半起床。サマータイムは昨日で終わり。今日からはウィンタータイムらしい。サマータイムが特別なんじゃなくて、ウィンタータイムこそが特別なんじゃないか、と思うくらい、サマータイム期間は長い。 朝食はいつも通り、パンとサラミとチーズと林檎。オレンジジュースだと思っていたジュースはアプリコットだったらしい。100%なのに全然味の違いがわからないとか、どうなんだ。言われてみれば、アプリコットだ、と思ったけど、やっぱり濃過ぎる。 それから午前中、ゆっくりと準備をしたり、なんやかやとして、スカイプで少し話す。 その後はバクーの町を友人のお姉さんに案内してもらった。14世紀に作られた塔に登る。これを人の手で作ったんだと、クレーンや車の無い時代に、人が組み上げたんだということに、素直に感動する。 海岸沿いに公園が広がっていて、その一角にサボテン。サボテン。サボテン。遠い丘(初日に登った)の上には近未来的なビルが建設中で、その対比が面白いなぁと思ったけれど、サボテンの植えられ方も近未来的な気がした。 ショッピングセンターに入り、ひたすらうろつき、撮影をした。久しぶりに、撮った、と実感できた1日。途中でお昼ご飯を食べる。9マナ。ショッピングセンターのフードコートでロシア料理を食べたのだけれど、いまいち。 その後、散々歩き回ったと思ったけれど、たいしたこともなく、四時には部屋に戻っていた。途中、鉄道駅にもう一度立ち寄り、空港に向かうバスを確認できた。よかった。地球の歩き方には135番とあるけれど、そんなバスはない、らしい。どうかはわからないけれど、地元の人が、無い、と言い切ったのを見て、友人のお姉さんも顔でジェスチャー。「だってさ」で、実際は何番かというと、16番。EXPRESSと書いてある、一回り小さい白いバス。これが毎30分に出発。1時間弱で着くそうな。それで水曜日は空港に向かう。 そこからホテルまでの帰り道。 ホテルに戻り着くと1人で、さっきまでアツシさんがいたり、友人のお姉さんがいたり、朝は他にも同室の人がいたりしたけれど、急に寂しいな、と思ったけれど、すぐに出ていっただけと同じ人数がまた入室したらしく、夜、スカイプの後の買い出しから戻ると、ベッドはいっぱいに埋まっていた。 夜、町は賑やか。夜は暗くて撮れない、と思っていたけれど、ストロボを使えば撮れるな、と思い、でもストロボを使ってしまうと意図から外れやしないか、と思ったりしつつ、でもやらないよりはやった方が…とも思ったけれど、カメラは持ってきていなかった。 空気が乾いている。空は群青。買い出しは明日の食料と明後日の朝ご飯。近場だとどうしても高いから、少し足を伸ばして、往復1時間歩いた。夜、というほどの時間でもなく、18時を回ったくらいで辺りは暗く、なんだか海外に慣れていない頃に台湾とかベトナムの夜の町を歩いた頃を思い出した。あの時みたいな緊張感は、無い。警戒はしていても、緊張がない、というのは大きいと思う。 人種が違ってもやる事は同じ。何かを買って、何かを食べて、何かを飲んで、誰かと話し、体を清潔に保ち、疲れたら寝る。その当たり前のことさえ出来れば、世界で生きていけるんだ、と実感できるのは、こういう海外での取材のために滞在してるときに、ふとしたとき、自分が行っている所作が、全て、日本での生活の延長に過ぎないと気付いたときだ。今日はスーパーの袋を持ちながら歩いているときも、風呂場で洗濯をしているときもそれを感じていた。 明日はゆっくり休もう。どんなことでもいい、ゆっくり話せたらそれは素敵な1日だ。

0 comments

水の滴る色 (6)

2011年10月29日 (2) 歩く歩く歩く。日中、うっかりケータイをベッドに置き放しにしてしまって、バルコニーで雨がやむまでと思って航空券の予約を頑張ってしていたら、いつの間にか時間が過ぎてしまって、メールを見逃すなんてことをしてしまった。 なんだか恥ずかしいのだけれど、今回の旅はホームシックにかかっているみたい。自分がこの町を歩いているのも不思議な気がして、でもその町も日本と大差ないような気もしてきて、それはいつも通りで、カルチャーショックとか異文化にびっくりするとかは全くない。でも、とても不安で、帰る場所が無くなってしまうような気がして、ならない。 鉄道駅まで歩いて、その道すがら、昨日のお昼ご飯を食べたドネルで立ち食い。食べかけでごめんなさい、こっちのケバブはこんな感じ。 鉄道駅の近くの公園はなんともシュールだった。この趣味。 目的地は駅向こうのバス停だった。バス停で空港に向かうバスがどのくらいあるかを知りたかった。結局バス停について周りの人に聞いてみたけれど、ロシア語も英語も通じず、結局どのバスかさえあやふやなままになってしまった。最悪、タクシーで行くのか。今日は11時ごろに部屋を出て、旧市街をぐるっとまわり、昨日のケバブ屋さんでケバブを買った。旧市街では途中昨日から気になっていたお店で、もう一度品物を撰びに撰んで、ようやくはるさんにまいて欲しいなって思えるものに出会えた。ケバブ屋さんの前の地下道では、本屋さんでポストカードを買おうとしたら、「プレゼントだ」って言われて、もらっちゃった。そのおじさんを撮影させてもらったけれど、すごくいい笑顔だった。ケバブ屋さんは僕のこと覚えていた。そこから駅までの道の途中、おもしろい果物屋さんに出会って、写真を撮ろうとしたら、2kgも買わされてしまった。それはその後であった物乞いの親子にあげてしまった。 13時ごろ駅に着いて、いろんな人に聞いたけれど、バスはわからなかった。 それから帰り道、海を見て、帰ってきた。雨に降られてびしょ濡れになった。部屋には3時ごろ着いてしまった。 今はハレ。皮肉なもんだけど。明日晴れるといいな。

0 comments

水の滴る色 (5)

2011年10月29日 今朝は朝早くに起きて、メールを打つ。でもあとで朝食を摂りながら手帳を見返したら、言われた通り、時間を間違えていた。 何をどう読み間違えたんだろう、と呟いたら、アツシさんに笑われた。 朝5時に起きてメールを打つ。 朝7時までもう一度眠って、今度は電話をかける。スカイプが繋がらなかった。ケータイが通じるって便利なんだなと今更感心する。今までケータイも不携帯だったくせに。 電話で「行ってらっしゃい」を言う。 源さんの歌はだいぶ自分に染み込んだ気がする。 電話をしている間中、僕は路地にいたのだけれど、誰も通らず、この人がすれ違うのがやっとくらいの細い路地を照らす街灯と雨粒が美しい、と思った。その黒に沈む、綺麗なグラデーション。電話をするたびに、こういう「電話をしながら見ていた風景」がぼくの中に思い出されるようになっていくんだな、と思った。 それが降り積もってひとつの色になればいい。 雨は止んだけれど、水は滴る。 朝9時ごろまで、ごろごろとベッドの中で時間をつぶした。眠れなかった。 当然と言えば当然。だって7時間は眠った。それ以上は過剰だろうさ。 朝9時。今朝はちゃんと朝食がある。 バケット、チーズ、サラミソーセージ、林檎、濃過ぎるオレンジジュース、それに紅茶。 猫が僕らの朝ご飯を狙っていて、アツシさんがサラミの皮でじらしたら、食べてしまった。 大丈夫か猫。 これからもう少ししたら町へ出る。今日はどんな景色だろう。

0 comments

水の滴る色 (4)

2011年10月28日 朝起きたら九時半だった。 八時半だと思っていた起床時間が、九時半だったのは、10月のアゼルバイジャンにまでサマータイムがあるだなんて、とんと知らなかったからだ。 寝起きで紅茶をいれ、砂糖を加えてゆっくり飲む。朝食の代わり。 歯を磨いて、コンタクトレンズを入れて、同室だったイスラエル人と少しだけ会話をして部屋を出る。10時半。 時差ぼけなのかなんなのか、朝なのか昼なのかわからない感覚が一日中続いていた。 それでも昨日電話で話した通り、丘を登ろうと思って町を西へ歩き、階段を探す。まだ町の地理は全然つかめていない。 階段を探す途中、アゼルバイジャンの紙幣を全く持っていないことを思い出し、見つけた銀行のATMで引き出す。引き出した4枚の紙幣でなんとかやりくりしたい。正味2万円。 銀行のすぐ脇に丘へ登る階段を見つけ、登る。階段のすぐ隣はなんだか工事をしているようで、そのまま登っていくと、壊れた線路があった。後でガイドブックを読んだら、「壊れたケーブルカー沿いに階段を…」と記述があって、これのことか、と思った。ここまで地図をほとんど見ていなくて、うろ覚えのまま歩いてここまできたから、だいぶ満足だった。 見晴らしはよかったけれど、頂上の公園は工事中で入れなかった。 そのまま、今度は車道沿いに坂を東へ下り、旧市街の方角を目指した。 きれいな公園がその脇に続いていた。その公園を掃除している数人の男性。通り過ぎ、またその先の公園でも4人の男性が雨合羽を着て、掃除していた。話しかける。でも、全く通じず、英語もロシア語も通じなくて、相手も構わずアゼルバイジャン語で話してきて余計にわからなくて、だからこっちも日本語で返す。わけのわからない30分。でも最後には写真を撮らせてくれた。というか、「上司に怒られるから、写真撮ってもらうなんてできない」とかなんとか言ってたくせに、30分近く喋り、身振り手振り、タバコを吸い出したり、ケータイで僕を写メしたり散々した挙げ句、結局写真を撮らせてくれたから、大したことは無いんだろう。と信じたい。12時過ぎ。 その後大通りに出て、ケバブ屋さんを見つけ、そこに並んでいたら、さっきの4人組のおっさんがやってきて、彼が頼んだものと同じものを食べた。パクチー入りのケバブ。美味しかった。2マナ。 そのケバブ屋さんの目の前にメトロの駅があって、そういえばこの駅の近くに世界遺産が、とガイドブックに書いてあったのを思い出し、旧市街に入り込む。 世界遺産、シルヴァン・シャフ・ハーン宮殿。感動したら撮るだろうと思って、写真料金まで支払ったのに(とはいっても400円程度)、たいしてたいして。やっぱり世界遺産であそこまではしゃいだのは後にも先にもトルコのアヤソフィアくらいだ。 それでも時間の重さは感じれたし、なにより民芸品が素敵だった。こんなお土産みつけたい。 すぐにその宮殿は出てしまって、そのままガイドブックの地図に載っている東端まで行ってみた。工事現場、建設中の高層ビル、モール、人の影がなくなるあたり。その途中の目抜き通りやギムナジウムの子供たち、銀行のセキュリティなど、いろんな人達に出会ったけれど、きっと明日はもっとごみごみしたあたりになるんだろう。 地図の東端からホテルまで引き返し(ホテルは旧市街にある)、途中のスーパーで水、炭酸水、コーラ、バケット、チーズ、ソーセージ、林檎、オレンジジュースを買い込み14マナ。ホテルについてシャワーを浴び、スカイプで長電話。顔だけでも見れて良かった、と暖かい気分になる。 源さんの歌は、「くだらないの中に」がいちばん好きだ。今日はそれを聞きながら夕飯を買いにいった。 目抜き通りの入り口の近くにあるケバブ屋さんで、ケバブ2本。そしたらアイラン(甘くない、飲むヨーグルト)も2個ついてきた。満腹。3.2マナ。 それをホテルのバルコニーで食べていたら、同室の日本人のアツシさんと話し込んだ。バックパッカーの人の話はおもしろい。いろんな人生があるんだな、と感じて、日記をしたため、今日は寝る。 おやすみなさい。

0 comments

水の滴る色 (3)

2011年10月27日 モスクワにて。 ランディングのアナウンスがあってから、たっぷり15分は経ってから分厚い雲の中に機体は入っていった。雲を抜けるまでゆうに5分はかかって、抜けたと思ったら着陸だった。 乱気流も無く、急降下も無く、穏やかな着陸だったのだけれど、なぜだか機内では拍手が巻き起こり、僕はぽかんとしてしまった。 現在、ターミナルDでアゼルバイジャンへ向かう飛行機を待っている。 搭乗口はターミナルEなのだけれど、ここならネットが使える。 現地時間18時24分、日本時間23時24分。5時間の時差。 家族に送ったメールは返信が来た。 こんな時間の過ごし方もあるんだと、のんびりと、時間を感じる。 ランディング直前の機内食は白身魚とホタテのパスタだった。 おやつに抹茶のアイスクリームが出た。 お昼の機内食は鶏肉の照り焼きだった。 離陸から機内食までは完全に眠っていた。 成田ではサブウェイのサンドイッチを食べた。 明日からゆっくりと、確実に写真を撮る生活に入る。 怖い気持ち半分、落ち着いた気持ち半分。

0 comments

水の滴る色 (2)

2011年10月26日 今日の空は抜けるような青空で、綺麗な水色だった。写真を撮ったのだけれど、カードリーダをスーツケースにしまってしまったので載せられない。 一日中バタバタと動き回る最後の休日。明日出発だなんて思えないような、でも動いていた時間全てが、明日に向かっていく、いい気分で車のハンドルを握っていた。 最後じゃないよ、必ず帰ってくるんだ。そう言い聞かせるけれど、とりあえず一ヶ月おあずけになるから、いろんなことを適度にこなす。 積み重ねたままの本を本棚に戻した。 書類はさすがに入らなかったから、まとめた。 写真を刷った。 カメラはしまった。 パソコンのデータを整理した。 ゴミを出した。 畳んだまま放置されていた服をタンスにしまった。 そういうひとつひとつが、なんだか心地いい。 その瞬間が水彩画にしたら美しいんだろうな、と思ったら、帰り道はずっと『絵に描いたとしても時と共に何かが色褪せてしまうでしょう』 の歌詞の部分がエンドレスに響いて、水で絵の具を溶くイメージが離れなかった。 この間、友達からTwitterで「(ブルガリアの首都の)ソフィアってどんな印象でした?色とか。」と聞かれた。それに対して僕は「ソフィアは、白と緑と灰色のイメージです。樹々が多くて、建物が白い。でも灰色の印象も強い。」と返した。 町を訪れるたび、その町を色のイメージで喩えていたのはカンボジアに、初めての独りでの海外旅行をしたときからだった。今度訪れる町はどんな色なんだろう。 やっと実感がおりてきた。 明日、早朝の電車に乗り、昼の便でアゼルバイジャンへ向かいます。

0 comments

水の滴る色 (1)

2011年10月25日 明後日、日本を昼頃発つ便でアゼルバイジャンへ向かう。 また写真を撮る旅を始める。 秋が深まり、その深さを秋の始め、十月の中旬に奥日光で感じた。 奥鬼怒林道の色づき、光のシャワーに溜め息をもらし、空気の冷たさに息を白く吐いた。あの水辺は真冬ともなれば凍ってしまうのだろうか。 樹々の肌理にもこけがむし、息吹を感じるけれど、きっと深い雪に閉ざされる真冬、あそこは真っ白な世界になるんだろう。 僕はこの孟秋のいくつかの光景を忘れない。 滴る雨粒、コーヒーの匂い、小麦粉とオリーブオイル、手を湿らす汗、電車の冷たい冷房、金沢の公園で向き合った表情、深緑、霧雨のような雨の最中の吊り橋、白川郷の冷たい雨、高速道路の上でのワイパー、ガソリンの匂い、香水、その樹々のゆらめき、水辺の美しさ、銀の色。 僕は毎日のように車に乗って隣町へ出かける。その町でこどもたちと話し、その笑顔に眼を細める。 僕は日々、笑顔を見たい、という一心で車のハンドルを握る。手を振る笑顔にはにかむ。 ある友達は、その充足感が、心の引っ掻き疵でも気付くくらいに落ち着いているんじゃないかと言っていた。 僕は今、とても不安だ。 なんともいいようのない胸を締め付けられる感覚が断続的に続いている。 それを高揚感につなげられればいいけれど、今は死にたくもないし、そんな覚悟は要らないと知ってしまった。 1日1日と、その日が近づく。 覚悟を決めて今まで旅をしていたわけではなかったのだと思い知る。 僕は覚悟をするようなものなど持っていなかったのだと思い知る。 死を思い、覚悟するくらいなら、泥臭くてもいい、生きたいと、生きることを考える。 明後日、僕は日本を発って、大陸の国々を歩き回る。 その間、この日本語という言葉を忘れないように、ただ、つらつらと、思いつくままに言葉を並べていく。それを日記として。

0 comments

Thinking About Economy (on Twitter 11/July/2011)

昨夜、Twitter @naonaoichinaoで呟いたことを、今日、一部抜粋する形で、@yamaichinaosukeにも投稿した。まとめ。 日本人は文化的に商売を上手にする=お金を儲ける、ということを「よからぬこと」とか「きたないこと」と結びつける価値観を擦り込まれていると感じる。これは江戸時代の徳川幕府が要因だと指摘する人もいる。これは、階級を作る事による支配体制があり、士農工商で知られるように、商人がいちばん低い位置に吸えられている。それにより、お金のない武士、農民が上に立ち、お金を作る商人は心理的に見下げられていたのだ。posted at 02:12:08 でも、僕は思うに、この「商売を厭う」きらいはもっともっと前からあったのだと思う。僕が考える起源は、ムラ社会だ。村八分、という言葉で日本人に知られているシステムは、反目行為をしたものを村から引き離してしまう、というものだった。ムラ社会を築き上げる為には、目立ったことをする人がいては困った。これは「出る杭は打たれる」という風潮にたどり着く。一人だけがお金持ちになってしまうことを恐れた。カネは力になる。だからこそ、みんな「同じくらい」を美徳として生きてきた。 posted at 02:20:31 ビジネスって、ほんとは価値あるもんよ。でも、日本のドラマの中には、「貧しいけど頑張る」ことを美徳として描くストーリーがすごく多い。お金やキャリア、地位を持っている人がいわゆる悪で、それが氷解したり退治されたり心変わりさせられたり…。そんなストーリーが多いし、好まれる。posted at 02:22:36 もう、その時点で、文化的に「お金が嫌い」なんじゃないかと疑う。これは倹約とか、節制とかとは一線を画する。posted at 02:23:42 「お金が嫌い」なのは感情的な部分であって、嫌いだからといって、節約してお金を貯めて、それを投資に回す、という発想には結びつかない。だから日本では「投資家」という存在がどうしても汚いもの、もしくはドラマとかニュースの、テレビの中の世界、みたいな扱いをされる。posted at 02:24:56 いちばんわかりやすいのは、株とかの投資をギャンブルと混同していることか。全然違うのにね。posted at 02:25:16 倹約や節制はお金の無駄遣いを抑えつつ、プールしたお金を投資に回すことにつながる。資産運用。資産があるから資本になる。資本があるから新たな成長に繋がる。そういうサイクルが資本主義社会を作っている。posted at 02:27:40 そいうことに気付かずに、資本主義はお金が全て、大量生産、売ったもん勝ちみたいな空気が作られてしまっている。ここが大きな落とし穴。だって、そんな風に考えたら、それは資本主義じゃなくて社会主義にとても近い。posted at 02:28:14 上にいる人が決めて、その末端で消費・労働するだけの世界。だから日本を揶揄する時に、「世界でもっとも成功した社会主義」だなんて言われてしまう。自由にしていいのに自由にしない。そういう風潮でごろごろ社会を転がしている。posted at 02:29:43 それが悪い、と断じるつもりは無い。でも、そういう現状があって、それはほんとに資本主義をごろごろ転がしているたとえばアメリカみたいな社会とはどういう違いがあるんだろう、というところに認識とか思考とかが向かわなくちゃいけないと思う。posted at 02:30:40 そうでなかったら、絶対に日本は発展できない。だって、いつまでも自分たちの特性を理解特定しない人が多数なまま世論を作ったって、認識がズレてるんだもん、変わらないでしょ。posted at 02:31:38 ビジネスとして日本が一皮も二皮もむける時には、この日本独自の文化体質をうまくいかしたものがイノベーションされるか、もしくは、文化体質がガラリと変わった時だと思う。それまではいつまでも工業国であり続けるんだと思う。posted at 02:32:56 間違って欲しくないのは、僕は「こんな文化体質じゃダメだ」って思っているわけじゃないっていうこと。僕が言いたいのは、日本の文化を否定することじゃなくて、それがどういうものなのかしっかりと考えた上で、とるべき手段とか方向を考え直すべきだ、ということ。posted at 02:34:50 歴史とか地理とか政治とか文化とか…。地政学的な発想がないと、ビジネスだろうが何だろうが、戦略は立てられないよ…。posted at 02:35:47 経営の話の何が面白いって、ビジネスを考える時に必ずといっていい程、文化や歴史、社会システム、思想、哲学、工学や物理学なんかを巻き込んだ、1つの科学としての世界を考えようとするところだ。posted at 02:47:44 そして新しい何かをどこかにいる誰かに向かって作り出し続ける、という営為は、芸術作品を作ることに酷似している。posted at 02:47:47 In Japan, because of […]

0 comments

‘Asian Today’と、プロジェクト’Faces of Cities’に関する覚え書き

6.26.2011 on twitter Now what I wanna think over is that about ex-Socialism Nationals including former Soviet Union. Some might say that “it’s autoptical”, “everybody knows such a thing” or anything else like those, though, seeing this situation that Liberal Capitalism is spreading to the world with Globalization, I’m getting to wanna see it more […]

0 comments

そしてスコール

日本でもスコールが降るようになった。 そんな話を誰かとした気がする。 今日の夕立はすごかった。まるでほんとにスコールを見てるみたいで、 昼間、 ちょっとした合間に外に出てみたら、 あの匂いがふっとして、 一瞬で気持ちだけをどこか遠くへさらってしまった。 そういえば最近、 匂いでいろんなことを思い出すことが多い。 そんなセンチメンタルな季節だっけ、春って。 冷房の匂いとか。 雨の匂いとか。 マッチの匂いとか。 水の匂いとか。 電車の空気の匂いとか。 学校の階段の匂いとか。 部屋の匂いとか。 髪の匂いとか。 すれ違う誰かの香水の匂いとか。 段ボールの匂いとか。 その時間軸はその匂いによって様々で、 一番思い出す率が高いのは小学生の頃の記憶。 しかも自分が覚えてなかったような、ちょっとしたひっかかりが それを一思いに引っこ抜いてみると、 ぶわって吹き出すみたいに思い出す。 走馬灯。 それじゃないんだろうけど。 明日はちょっと、 海の匂いを嗅ぎにいこうと思います。 忘れていた、 昔、小さい頃に逗子の方へ家族旅行したことを、 ふと、 記憶としてではなく、思い出として、 もっと鮮明に思い出せたら。

0 comments