今日は日本語でかきます。
高校の現国の教科書でもあった『現代の文章』を、ここ最近読み直している。この中に、丸山真男氏の『現代政治の思想と行動』の第3部8節が抜粋されている。そこではチャップリンが「倒錯した人々」がどのように振る舞うのかを映画の中で示していることが指摘されている。チャップリンの代表作は『独裁者』だろう。もちろん、『モダン・タイムス』もとても有名だしポピュラーだし、意義深いものだ。丸山氏も『モダン・タイムス』の中でチャップリンが世界で起こりうる倒錯をえぐり出す鋭さをいかにみせていたかを問うている。しかし、ぼくは『独裁者』がより、今の時代として、重要であると感じるのだ。 この本で丸山が主張したのは他でもない、ナチスという怪物がドイツを掌握していった原理の点だ。倒錯した世界の人々には、自分たちは倒錯しているようには見えない。そのことをチャップリンは、逆さまに飛行する飛行機に乗るふたりの人物でも如実に示している。そこで彼は当然の疑問に立ち止まる。「それではドイツ人は、その戦時中の様子をどうとらえていたのだろう」と。丸山は、ミルトン・マイヤーが当時のドイツ国内にいた言語学者にインタビューした(彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動-ミルトン・マイヤー/dp/4624110684″『彼らは自由だと思っていた』リンクは邦訳版)文を引用する。ここではマイヤーの文を私が拙訳した文でまとめる。 「この過程(ナチスが社会変革をしつつ、ドイツを思うがままに操っていく過程)の中で生きるということは、完全にその過程に気付けない、ということに等しい。…(人々も)農夫が自分の畑でとうもろこしが育っていくのを眺めるように、日々の移り変わりを眺めているのだ。ある日気づいて見ると、作物は自分の頭より高く育っているように」 この文章は、現在2015年を生きる日本人はどう捉えるべきなのだろう。ときに政治は緩く、ときに忙しく日本の世界に変化を与える。そのひとつひとつは小さなものだとしても、ひとつひとつを「しゃぁない」で済ませていないか。マイヤーのインタビューはこう続く 「そしてある日、全ては遅すぎる頃に…目の前で完全に本当に全てが変わってしまったことを目の当たりにするのだ。自分が住むこの世界も、国も、人々も、かつて自分が生まれ育ったところは遠く隔たった全く違うものにのになってしまった。取り巻く世界の形はなにもかもがそのままのはずなのに…みんな、外観と中身がイコールだと思い込んで生きてきたから、その変化に気付けないのだ。今自分が憎しみと恐怖の世界に住んでいて、同じく自分が憎しみ恐れていることに気づいてもいない。全員がひとときに変わってしまうとき、誰も変わっていないのと同じなのだ。」 こうして、ナチスによる大虐殺まで進んだとして、いまの政治はどうなんだろう、と考えるためにも、結末を熟考するときにきているんではないだろうか。 (以下にマイヤーのインタビューの該当部分を拙訳で引用します) [この過程(ナチスが社会変革をしつつ、ドイツを思うがままに操っていく過程)の中で生きるということは、完全にその過程に気付けない、ということに等しい。どうか信じてほしい。それに気づけるには、多くの人々が学んできたことよりもはるかに政治的洞察に秀でていない限り、無理だ。ひとつひとつの変化はとても小さく、実に巧妙で、とてもよく説明されていてた。時折”残念”に感じはしても、全ての過程から初めから離れて見ていない限りは、それらの全ての出来事が原理的にどういうことなのか理解できない。そして「愛国心を持つ国民」が理解できていなければ、そのひとつひとつの「小さな措置」はひっかかることなく過ぎ去ってしまう。農夫が自分の畑でとうもろこしが育っていくのを眺めるように、日々のうつり変わりを眺めるているのだ。ある日気がついてみると、作物は頭より高く育っているのだ。 [ふつうの人が、いや、高等教育を受けた人にでさえ、どうしたらよかったというのだろう。正直わからない。いまでもわからないのだ。全てが起こってしまってから、何度も何度も偉大なる一対の格言を私は熟考した。「端初に抵抗せよ」「結末を考えよ」…。しかし、それは初めに抵抗すべく、結末を予見しなければ、いや見ることだけでさえしなければいけない。結末を正しく明瞭に予知するなど、誰がどうしてできる?「もしかすると」「かもしれない」をみんな数えるだけなのだ。 [子供たちも、ナチの友人も、本当に社会主義に抗議しているわけではなかった。私のような市民たちの方が、過言かもしれないが、知識ではなく、なんとなく、という理由で、より犯罪を犯していたようなものだ。Pastor Niemoellerは私のような人間について、何度となく(謙遜して)語ったのだ。ナチが社会主義者たちを攻撃してたとき、自分は少し不安になったが、社会主義者ではないから何もしなかった。そしてそれから学校が、新聞社が、ユダヤ人たちが次々に攻撃され、日々不安はつのったが、なにもしなかった。そしてナチが教会を攻撃したとき、自分は牧師だったからやっと動いた。でも、それではもう遅すぎたのだ。 [当然だろう、誰もどこでどう動くべきか、確実に知っているわけではない。信じてほしい。これは本当の話なのだ。それぞれの行為、それぞれの事件はその前のものよりもたしかに悪くなっている。でもほんの少し悪くなっているだけなのだ。だから次を、次こそは、と待ちの姿勢になる。何か深刻なショッキングな事件が起こるのを待ち、他の人もそのショッキングな事件が起きた時に、どうにかしてともに抗うかもしれない、と考える。ひとりで立ち上がったり叫んだりはしたくないのだ。「トラブルを作りに自分の生活を乱したくない」のだ。なぜならレジスタンスの習慣がないからだ。それは恐怖だけではなく、ひとりだけで立ち上がる恐怖がその動きを抑制し、本当にためらいがちになるのだ。 [その躊躇はとても大きな要素であり、時間が流れると薄れるのではなく、大きく育ってしまう。外では、街では、ふつうのコミュニティでは”みんな”幸せそうなのだ。なんの抗議もないように思える。もちろんイタリアやフランスでは反政府運動のスローガンが壁やフェンスに描かれていただろうけれども、ドイツでは郊外でもおそらくそんなものはなかった。大学の友人と、自分の気の知れた友人に向かって個人的にこの不安を話してみても、「そんなに悪い世の中じゃないよ」とか「そう思えるだけさ」とか、挙げ句の果てには「君は脅かし屋だな」とまで言われてしまうのだ。 [こうして脅かし屋と呼ばれ、これらの事件がこれこれこうすると言ったところで証明も出来ない。ただはじまりが見えるだけなのだ。結末も知らないのに確信をどう持てるだろう。いや、推測でさえ難しいだろう。一方では自分の敵が、法律が、政府が、政党が自分を脅かし、他方では同僚が私のことを悲観的だとか、ノイローゼだとまでばかにする。そうして気の知れた親友たちから自然と疎遠になってしまう。 [友達が減り、何人かは移住し、また何人かは仕事に没頭する。集会や集まりで会う人数はもはや減り続け、グループは小さくなる。そして古くからの親しい友人にさえ、自分が感じているリアリティかを伝えられなくなり、自分自 身に話しかけるようになっていく。このスパイラルは自信を削ぎ、自分を抑えつけていく。つまり、もし何か行動を起こそうとすれば、それは事件となり、自分がトラブルメーカーとなってしまうため、ただただ、待つようになってしまうのだ。 [でも、何十人、何百人、何千人という人がともに立ち上がるようなショッキングな事件は決して起きないのだ。これが難点だ。もし、政府のこれまでの全てで最後の最悪の出来事が、最初のほんの小さな事件のすぐ後に起きていたら、何千人、いや何百万人の人々が本当にショックを受けて立ち上がっただろう。「たられば」だが言わせてほしい。もし、1933年の「ドイツの商店」というステッカーがユダヤ人以外の店先に貼られたすぐ後に、1943年のユダヤ人へのガス殺人が起きていたら…。しかし、そんな風には物事は進まないのだ。この間には何百という小さな段階があったし、その中には気付けないくらいの小さなステップもあった。そのひとつひとつの事件は、誰もが驚かないように、順番に準備されているのだ。例えば、Cという状況はBという状況と比べてそこまで悪くなっていないとする。このとき、Bのときにも立ち止まらなかったのに、Cでなぜ立ち止まるだろう?そうやってD、E、F…と続いていくのだ。 [そしてある日、全ては遅すぎる頃に、あなたの良心が自分をひといきに襲うのだ。自己欺瞞の重荷はいよいよ重くなり、小さないくつかのことが一気に起こる。私のケースなら、息子が赤ちゃんから子どもと呼べるくらいに成長したころに、「ユダヤ人の豚どもめ」と言ったことから始まった。そうして目の前で完全に本当に全てが変わってしまったことを目の当たりにするのだ。自分が住むこの世界も、国も、人々も、かつて自分が生まれ育ったところは遠く隔たった全く違うものにのになってしまった。取り巻く世界の形はなにもかもがそのままのはずなのに、家も、店も、仕事も、食事も、訪ねていくことも訪ねてくる人も、コンサートも、映画も、休日も、そのままあるはずなのに、魂はすっかり変わり果ててしまっている。でも、みんな、外観と中身がイコールだと思い込んで生きてきたから、その変化に気付けないのだ。今自分が憎しみと恐怖の世界に住んでいて、同じく自分が憎しみ恐れていることに気づいてもいない。全員がひとときに変わってしまうとき、誰も変わっていないのと同じなのだ。」 以下原文。>>>>>>>>>> “To live in this process is absolutely not to be able to notice it— please try to believe me— unless one has a much greater degree of political awareness, acuity, than most of us had ever had occasion to develop. Each step was so small, so inconsequential, so well explained or, on occasion, ‘regretted’ that, unless one were detached from the whole process from the beginning, unless one understood what the whole thing was in principle, what all these ‘little measures’ that no ‘patriotic German’ could resent must some day lead to, one no more saw it developing from day to day than a farmer in his field sees the corn growing. One day it is over his head. “How is this to be avoided, among ordinary men, even highly educated ordinary men? Frankly, I do not know. I do not see, even now. Many, many times since it all happened I have pondered that pair of great maxims, ‘Principiis obsta’ and ‘Finem respice’—‘Resist the beginnings’ and ‘Consider the end.’ But one must foresee the end in order to resist, or even see, the beginnings. One must foresee the end clearly and certainly and how is this to be done, by ordinary men or even by extraordinary men? Things might have. And everyone counts on that “might”. “Your ‘little men,’ your Nazi friends, were not against National Socialism in principle. Men like me, who were, are the greater offenders, not because we knew better(that would be too much to say) but because we sensed better. Pastor Niemöller spoke for the thousands and thousands of men like me when he spoke(too modestly of himself) and said that, when the Nazis attacked the Communists, he was little uneasy, but, after all, he was not a Communist, and so he did nothing; and then they attacked the Socialists, and he was a little uneasier, but still, he was not a Socialist, and he did nothing; and then the schools, the press, the Jews, and so on, and he was always uneasier, but still he did nothing. And then they attacked the Church, and he was a Churchman, and he did something— but then it was too late.” “You see,” my colleague went on,”one doesn’t see exactly where or how to move. Believe me, this is true. Each act, each occasion, is worse than the last, but only a little worse. You want for the next and the next. You wait for one great shocking occasion, thinking the others, when such a shock comes, will join with you in resisting somehow. You don’t want to act, or even talk, alone; you don’t want to ‘go out of your way to make trouble.’ Why not?— Well, you are not in the habit of doing it. And it is not just fear, fear of standing alone, that restrains you; it is also genuine uncertainty. “Uncertainty is a very important factor, and, instead of decreasing as time goes on, it grows. Outside, in the streets, in the general community,’everyone’ is happy. One hears no protest, and certainly sees none. You know, in France or Italy there would be slogans against the government painted on walls and fences; in Germany, outside the great cities, perhaps, there is not even this. In the university community, in your own community, you speak privately to your colleagues, some of whom certainly feel as you do; but what do they say? They say, ‘It’s not so bad’ or ‘You’re seeing things’ or ‘You’re an alarmist.’ “And you are an alarmist. You are saying that this must lead to this, and you can’t prove it. These are the beginnings, yes; but how do you know for sure when you don’t know the end, and how do you know, or even surmise, the end? On the one hand, your enemies, the law, the regime, the Party, intimidate you, On the other, your colleagues pooh-pooh you as pessimistic or even neurotic. You are left with your close friends, who are, naturally, people who have always thought as you have. “But your friends are fewer now. Some have drifted off somewhere or submerged themselves in their work. You no longer see as many as you did at meetings or gatherings. Informal groups become smaller; attendance drops off in little organizations, and the organizations themselves wither. Now, in small gatherings of your oldest friends, you feel that you are talking to yourselves, that you are isolated from the reality of things. This weakens your confidence still further and serves as a further deterrent to —to what? It is clear all the time that, if you are going to do anything, you must make an occasion to do it, and then you are obviously a trouble maker. So you wait, and you wait. “But the one great shocking occasion, when tens or hundreds or thousands will join with you, never comes. That’s the difficulty. If the last and worst act of the whole regime had come immediately after the first and smallest, thousands, yes, millions would have been sufficiently shocked—if, let us say, the gassing of the Jews in ’43 had come immediately after the ‘German Firm’ stickers on the windows of non-Jewish shops in’33. But of course this isn’t the way it happens. In between come all the hundreds of little steps, some of them imperceptible, each of them preparing you not to be shocked by the next, Step C is not so much worse than Step B, and if you did not make a stand at Step B, why should you at Step C? And so on to Step D. “And one day, too late, your principles, if you were ever sensible of them, all rush in upon you. The burden of self-deception has grown too heavy, and some minor incident, in my case my little boy, hardly more than a baby, saying ‘Jewish swine,’collapses it all at once. and you see that everything, everything, has changed and changed completely under your nose. The world you live in—your nation, your people— is not the world you were born in at all. The forms are all there, all untouched, all reassuring, the houses, the shops, the jobs, the mealtimes, the visits, the concerts, the cinema, the holidays. But the spirit, which you never noticed because you made the lifelong mistake of identifying it with the forms, is changed. Now you live in a world of hate and fear, and the people who hate and fear do not even know it themselves; when everyone is transformed, no one is transformed. Now you live in a system which rules without responsibility even to God. The system itself could not have intended this in the beginning, but in order to sustain itself it was compelled to go all the way.