水の滴る色(18)

2011年11月12日

キエフ時間で日付が変わる頃、日本は朝の7時を迎える。それを30分くらい回ったあたりを目がけて、実家に電話を入れた。
今日、祖父が旅行に出かける。一泊二日という短いスケジュールでも、声が聞けるときに、声をかけられる時に、行ってらっしゃいを言いたくて電話をした。
父も、珍しく電話口で饒舌だった。

行ってらっしゃいを言って、眠る。
午前7時。
ブラインド越しに見える外は真っ暗で、まだ夜みたいだった。キエフ。

そしてもう一度目が覚めたら11時だった。どれだけ眠ってしまったんだろう、と思いながら眠たい頭を持ち上げる。
どうしても風邪が抜けず、それを心配した父が昨夜、というか今朝(ややこしいな)、「水分はちゃんと摂ってるのか」と訊いてきた。意外だった。まともな意見!
確かに水分は摂っているけれど、普段日本に居るときと同じくらいしか摂っていなくて、それでも2Lはいくのだけれど、湿潤な日本でそれだけ飲むのなら、乾き切ったこの気候下ではもっと飲んでも良いのかも知れない、と思った。
また痩せた、と心配されたが、写真写りのせいだと自分では信じている。

今日は喉がまだ痛いのと、雪がちらついていたこと、ということを考えても、外に出る気がなかった。

部屋は散らかっていて、僕は独り部屋になるとこうなる、ということがよくわかる。

昨日買ってきたフルーツジュース。
こっちでは100%無添加のジュースはとろっとしていて、全部「ネクター」って書いてある。Нектарね。ネクター。
ネクターっていうと、僕はピーチジュースしか思い浮かばないのだけれど、あの濃厚さで全ての果物が提供されているから、すごい。これをがぶ飲みしながら、ビタミン剤を飲んでいます。

ビタミン剤はすっぱいのだ。

今回は荷物紹介を少し。
以前、横国の広報さんからインタビューを受けた時に、どんなものを旅に携行するか、と訊かれて、いつも必ず持ち歩くものを答えたことがあるのだけれど、その時と少しだけラインナップが変わっている。

左上硬貨のすぐ隣にあるのが露出計やストロボ、それに関連して電池類、エネループの充電器。露出計の右にある白いコンセントが、プラグ変換のもの。これは2つ持ち歩いている。それから体温計やナイフ、レリーズ、爪切り、毛抜き、小さい鏡、メジャー、海外用携帯電話(これはもうほとんど出番が無くなった)、レンズのクリーナー。今回はMacを持っているから、なんとなく星形ドライバーも持ってきた。いらないのはわかっているのだけれども。あと、ソーイングセットと、精密ドライバー。延長コードにロープ。マスキングテープ。

このナイフはずっと持ち歩いている。こいつは優れもので、果物や野菜だけじゃなく、骨付肉なんかもすっきり切れる切れ味。で、このナイフを畳んだ状態で僕は瓶ビールの栓だって開けてしまう。
今までは小型のスピーカーを持ち歩いていたのだけれど、あまり音楽をかけなくても、夜、過ごせるようになったので、今回から持って来ないことにした。

このMacBookはもう5年も使っているんだ、と思うとびっくりするけれど、実は海外取材に持ってくるのは初。iPodはいつもの通り。今回はtouchもお目見えした。
荷物持って来過ぎだが、これだけだと大きめのリュックサックに全部入る。この他にカメラ機材とフィルムたち、着替え、歯ブラシ、今回はコンタクトレンズで来てるからそれ関連のもの、また石鹸なんかを持ち歩いている。

本は地球の歩き方二冊に、文庫二冊。雑誌も持って来たけど、これはロンドンで置いて来ようかな。
大きなスケッチブックは今回も持って来ている。
バックパックを背負うのは腰に痛いので、面倒だけれど、スーツケースで来ている。このスーツケース、父のお下がりだが、僕が使い込んだおかげでぼろぼろだ。もうまっすぐ自立しない。いろんなシールがはがれなくて、すげー汚い。でもその分愛着があって、今回の旅で最後かな、と思ってたけれど、壊れるまでは使ってあげようかな、とも思っている。

宿のアパートから徒歩10分以内のところにある、キエフで現存する最古の教会、聖ソフィア聖堂へ向かった。

地球の歩き方の情報は少し古いみたいで、料金も違ったし(地球の歩き方には20UAHとあったけれど、今は43UAH。学生でも8UAHとあるけれどこれが確か20UAH)、聖堂内は定時で区切られているわけでもなく、個人で普通にするする観ることが出来た。

聖堂の中は暗く、間接照明で明かりを灯し、観て欲しいところにだけ光がまわるようになっていた。その明かりの中で観る聖堂の祭壇は荘厳で美しく、思わず息を呑んだ。金色の祭壇、その祭壇を作った人の思い、くぐり抜けてきた時間、それが歴史となって歪んでいるからこそ、ここにまだ立っている、という力強さを感じさせてくれる。
変わっていくもの、移ろっていくものには、当然、その当時、確かな価値があるべきだけれど、変わらないもの、いつまでも立ち続けるその姿にはその価値では推し量れないほどの素晴しさが詰まっているのだ、と感じる。

トルコのイスタンブルにあるアヤソフィアと同じ名前で、1037年に建てられたキエフの聖ソフィア大聖堂の方が、新しく、小規模であるけれども、僕はこの佇まいに、「こっちの方が好きだな」と感じた。
もちろんアヤソフィアはスケールのでかさと、360年から刻む歴史の中、500年代半ば頃の姿を今に残しているから、その時間の厚みや、越えて来た歴史の数々も多く、また装飾も同じギリシャ正教ながら、純粋に近い、ビザンツのギリシャ正教を受け継いでいるか、人の手により、歴史の中により、形を変えて来たギリシャ正教を受け継いでいるか、で様式も趣もここまで変わるのか、と感動した。
中は撮影禁止だったけれども、その美しさは、凝縮され、よく目に焼き付けてきた。ここはまた来たい。

2階の展示室には巨大な現代作家によるモザイク画があった。
これは撮影許可が出たので、一枚。相当でかい。このドット1つ1つがたまごで出来ていて、たまごをカラーリングすることでドットを作り、それを敷き詰め1つの画を作り出していた。
ドットから絵を描く、という手法は今のコンピューターにも活きていて、長い時代の中で人が絵を描くという根本的なところは通じている、という感じを受けた。

館員のおばちゃん4人に声をかけたけれど、当たり前と言えば当たり前だが、全員に撮影はお断りされた。

夕飯は昨日と同じお店。今回はお肉!と思って買ったはいいけれど、やっぱり無理。すぐお腹いっぱいになってしまって(スープとサラダだけで腹八分目だった)、持ち帰りたかったけれど、「ダメ」と言われ、諦めて少し残して返って来た。明日は完食できる程度の量に留めよう。

今日は長いブログでした。これからスケッチブックに向かって色々書き連ねます。

明日は晴れるといいな。おやすみなさい。